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知っておきたい日本の歴史=徳力啓三=(17)

近代文化の形成

 明治政府は西洋化を進め、西洋の学問と文化を急速に取り入れ近代化を進めた。
 1877年には東京大学を創設し、1886年には帝国大学へと昇格させた。外国よりその道の専門家である外国人を教師として雇い、大学での授業は全て英語で行った。
 また西洋の概念や理論を日本語に移入するため、膨大な翻訳語が作られた。この時期に作られた翻訳語は、そのままの形で中国語、朝鮮語に持ち込まれ、現在も使われている。
 1888年頃より優れた日本人学者が世界の最先端の研究を行うようになった。
 1890年には、北里柴三郎が破傷風の血清を創り出し、1894年には高峰譲吉がタカジアスターゼを、1897年には志賀潔が赤痢菌を発見した。1903年、長岡半太郎が原子の模型を作り、1910年には、鈴木梅太郎がビタミンB1を発見した。1918年、野口英世が黄熱病の病原体の研究をして、病原菌を発見した。
 1888年頃より思想や感情を日常の言葉で表現する運動(言文一致運動)が起こり口語文の基礎が出来上がった。二葉亭四迷や尾崎紅葉は同じ頃ロマン主義運動を起し、森鴎外や樋口一葉がそれに続いた。
 1898年になると島崎藤村、夏目漱石、正岡子規、与謝野晶子、石川啄木、など明治時代の日本文学、俳諧、俳句、短歌など平易な言葉を使って民衆の誰もが参加出来るようになった。
 明治時代を通して、西洋の美と日本の伝統とがしっかりと組み合わさった。絵画の分野では、日本の伝統美術を保存発展させるために東京美術学校を創った岡倉天心、日本画の横山大観や苅野芳崖、自然光の色彩感覚によって美術界に新風をいれた黒田清輝、藤島武治、彫刻では高村光雲、音楽では滝廉太郎など多彩な能力の持ち主達がそれぞれに大活躍をした。


《補講》 世界が見た日露戦争

日本海海戦。連合艦隊旗艦三笠艦橋で指揮を執る東郷平八郎大将(Tōjō Shōtarō, Public domain, via Wikimedia Commons)

 世界の有色人種が、自国の独立への大きな希望を抱くに至った一大ニュース。まず、白人の住むヨーロッパの人々の反応を見てみましょう。
 日露戦争における日本の勝利は、人種差別に基づく欧米中心の世界の秩序を揺るがすものとなりました。黄色人種の小国・日本が白色人種の大国・ロシアに勝ったからです。
 中国の革命の父と呼ばれる孫文は、その当時ヨーロッパにいました。日本がロシアのバルチック艦隊を破った時のヨーロッパ人の反応を次のように書き残しています。
 「全ヨーロッパの人民は、あたかも父母を失った如くに悲しみ憂えたのです。イギリスは日本と同盟国でありましたが、殆んどのイギリス人は眉をひそめ、日本が勝利したことは決して白色人種の幸福を意味するものではないと思ったのです」
 アジアの人々の反応はどうでしょう。
 「戦後しばらくして私は、船でアジアに帰ることになり、スエズ運河を通ると、沢山の現地人が、私が黄色人種であるのを見て、非常に喜んだ。『以前はわれわれ東亜の有色人種は、西方の白色人種の圧迫を受け、苦痛をなめた。だが、今度日本がロシアに勝ったことは、東方民族が西方民族に勝ったと同じだ。日本が勝ったのだから我々も勝たねばならない。だから我々は歓喜する』と。日本がロシアに勝ったことが、アジア民族にとっては独立にたいする大いなる希望を抱くに至ったのです」
 これが、孫文が観察した日露戦争へのアジア人の反応でした。
 次に、世界中の独立運動の指導者達が言った言葉をみてみましょう。

日本海海戦。5月27日早朝、バルチック艦隊との決戦に出撃する連合艦隊(「朝日」艦上より、日本語: 関 重忠<東京:博文館>, Public domain, via Wikimedia Commons)

 インドの独立運動家で後に首相になったネールは「もし日本が、もっとも強大なヨーロッパの一国に対して勝利を博したとするならば、どうしてそれをインドが為し得ないといえるだろう?」と書き残しました。

 エジプトの民族運動の指導者ムスタファーは「日本人こそヨーロッパ人に身の程をわきまえさせてやった唯一の東洋人である」と述べました。
 イランの詩人、シーラージーは「立憲制によってこそ日本は強大になった。その結果かくも強き敵に打ち勝った」と分析しました。
 日本の勝利は、20世紀最大の奇跡といわれるほど、人類に対して大きな出来事であったのです。これにより、世界は「白人による植民地支配」がなくなるもととなり、また人種差別がなくなるもとにもなりました。
 第一次世界大戦の後、国際連盟結成の際に、日本は世界に向かって、「人種差別撤廃」を提案しました。日露戦争はそういう大きな成果を世界に残したのです。


第5章 近代の日本と世界(Ⅱ)
 大正と昭和時代の前半

第1節 第一次世界大戦とその影響

第一次世界大戦と日本の参戦

第一次世界大戦。ガスマスクを着用し塹壕に隠れるオーストラリア兵。イーペル、1917年(Photo by Captain Frank Hurley., Public domain, via Wikimedia Commons)

 日露戦争後、ロシアは東アジアでの南下政策をあきらめ、再びヨーロッパへの進出をはかった。ドイツは既にオーストリア、イタリアと「三国同盟」を結んでいて、海軍力を拡大して海外進出を図っていた。
 1907年、これを恐れたイギリスは、フランスとロシアと組んで「三国協商」を成立させ、ドイツを包囲した。ヨーロッパの国々はどちらかにつき、緊張が高まった。
 同盟側にはトルコ、ブルガリア、協商側にはベルギー、アメリカ、中国、日本などが加わった。後にイタリアが同盟を抜け、協商側に移った。
 1914年、オーストリアの皇太子がセルビアで暗殺された(サラエボ事件)。これがきっかけとなり両陣営は同盟や協商に基づき相次いで参戦し、第一次世界大戦が始まった。
 日本はその頃、英国と「日英同盟」を結んでいたので協商側につき、ドイツに宣戦布告した。そしてドイツの租借地であった山東半島や青島(チンタオ)、太平洋の赤道以北のドイツ領を占領した。ドイツの潜水艦が協商側(連合国側)の商船を攻撃し始めると、日本は駆逐艦の艦隊を地中海に派遣し、護衛に活躍した。
 1914年当時の日本の領土は、沖縄、千島列島、南樺太、小笠原諸島、台湾、朝鮮であった。1920年から、南洋諸島(マリアナ、マーシャル、カロリン、パラオ)を委任統治した。


《資料》中国に対する日本の「21か条要求」

 1915年、日本は中国に対し次のように主張した。①ドイツが山東省に持っていた権益を譲ること。②日本の旅順と大連の租借地、南満州鉄道の利権の使用期限を99年間に延長すること。③中国は南満州、東部内モンゴルにおける鉱山の採掘権を日本へ譲ることなど。


ロシア革命と大戦の終結

 1917年、長引く世界大戦の最中、ロシア革命が起こった。始めは市民の暴動であったが、兵士が加わり、ロマノフ王朝が倒れた(二月革命)。武装したレーニンの一派は、労働者と兵士を中心に代表者会議を起こし政府をつくった(十月革命)。そして武力を用いて共産党一党独裁体制をつくり上げた。
 その後5年間、ソ連独裁政府は、ドイツとの戦争をやめ、革命に反対する国内勢力との内戦に没頭、皇帝一族、貴族、資本家、聖職者、知識人など数知れず(数千万人とも言われている)を殺害。飢饉の発生もあり、数百万の農民が餓死した。
 1922年、ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が成立した。
 1918年、日本はロシア領内で孤立したチェコスロバキア部隊の救出と満州の権益を護るためにアメリカなどとともにシベリアへ兵を送った(シベリア出兵)。
 1918年、4年間続いた世界大戦は膨大な犠牲者を出して終わった。大戦は国民経済、科学技術の全てを動員する総力戦であった。新兵器が用いられ、兵士以外の国民も戦禍に巻き込まれた。国民は軍需工場に動員され、生活物資が不足し、困窮を極めた。
 戦争による被害は、連合国側24ヵ国の死傷者は2207万人(含戦死者474万人)、同盟国側4ヵ国の死傷者は、1516万人(含戦死者338万人)となり、両者合わせると死傷者3791万人(含戦死者853万人)いずれも推定値だが、1918年にアメリカが連合国側に加わったことにより、連合国側の勝利で終った。
 敗北した同盟国側のドイツ帝国は崩壊、ワイマール共和国が成立した。ヨーロッパは、人類史上始めての総力戦の悲惨な現実を経験した。
 その一方で、日本は、少ない犠牲で戦勝国となった。戦地より遠く離れていたため、消耗戦に引きずり込まれることなく、国力を保持でき、国際社会での発言力が増した。

ベルサイユ条約と大戦後の世界

 1919年にパリで講和会議が開かれ、戦後処理が話し合われた。日本は5大国(米、英、仏、日、伊)の一つとして出席し、ベルサイユ条約が結ばれた。これによって、ドイツは戦争の責任を問われ、領土の一部と全ての植民地を失い、過酷な賠償金1320億マルク(国家予算の25年分に匹敵)の返済にあえぐようになった。
 ドイツは膨大な補償のためスーパーインフレを引き起こし、これが第2次大戦を起こす大きな原因の一つとなった。
 同じ年、パリの講和会議で国家の利害を超えた世界平和と国際協調のための国際機関の設立をアメリカのウィルソン大統領が提案し、国際連盟が発足した。ところが、提案国のアメリカが議会の反対にあって参加せず、国際連盟は限られた力しか発揮出来なかった。
 日本は国際連盟の規約に人種差別撤廃を盛り込むことを提案した。世界の有色人種は、この決議に期待した。投票の結果は11対5で賛成が多かったが、議長役のアメリカ代表のウィルソンは重要案件は全会一致を要するとして不採択を宣言した。多くの日本人は落胆した。
 第一次大戦の後、アジアでは民族自決の運動が起きた。インドでは民族独立運動が起こった。非暴力主義のガンジーが、約束されていたインドの自治をイギリスに要求した。イギリスはこれを弾圧したが、民族独立への動きは却って大規模になっていった。トルコでは、オスマン帝国の将軍ケマルが帝政を廃止し、共和国を樹立した。
 日本の統治下にあった朝鮮では、1919年3月、旧国王の葬儀に集った人々が独立宣言し、デモをした。日本の出先機関である総督府は、この運動を武力で鎮圧したが、事態を重くみて、統治の方針を文治政策に変更し、後に日本との一体化を進めていくことになった。
 中国では、日本がドイツの権益を引き継ぐことに反発し、1919年、北京で学生のデモが発生した。この運動は後に中国全国に広がった。日本は、大戦中軍需品の輸出が急増し、アジア諸国への輸出も増えた。重工業も急速に発展して、日本は大戦景気と呼ばれる空前の好景気を迎えた。


 《資料》ベルサイユ条約の民族自決の原則で、敗戦国の植民地には独立を認めた。アメリカのウィルソン大統領は、ベルサイユ条約の民族自決の原則で、敗戦国の植民地には独立を認め、戦勝国の植民地には認めなかった。即ちドイツとオーストラリアの植民地であった①アイスランド、②フィンランド、③エストニア、④ラトビア、⑤リトアニア、⑥ポーランド、⑦チェコスロバキア、⑧ハンガリー、⑨ユーゴスラビアは独立国となった。独立したのは、白人国のみであった。


政党政治の展開と社会運動

原敬首相( 1856―1921、Unknown author, Public domain, via Wikimedia Commons)

 日露戦争後の日本の政治は、薩摩や長州出身者による藩閥勢力と立憲政友会という政党が、交互に内閣を組織する時期が続いた。明治天皇が崩御し1912年に入ると、藩閥内閣を批判し、大日本帝国憲法の精神に基づいて国民の意思を反映した政治を求める運動(護憲運動)が起こった。
 1918年シベリア出兵を当て込んだ米の買い占めが起こり、米の値段が上がり立憲政友会総裁の原敬が首相となり、陸・海・外務の3大臣以外の大臣は、全て立憲政友会に属する国会議員から選び、日本初の本格的な政党内閣が成立した。
 1921年、原首相は暴漢に襲われ暗殺された。
 1920年には政党政治が定着し、普通選挙運動などの社会運動も活発に行なわれる様になり、民主主義(デモクラシー)の思想と国際協調の世論が強まった(大正デモクラシー)。
 1922年ごろになると労働組合が多数組織され、メーデーや労働運動、農民運動なども盛んに行われるようになった。女性の地位向上のための婦人運動も始まり、婦人参政権や女子高等教育の拡充が主張されるようになった。
 1924年、加藤高明を首相とする護憲三派内閣が成立した。以後8年間、1932年まで衆議院で多数を占める政党の総裁が内閣を組織するようになった(憲政の常道)。
 1925年、同内閣は普通選挙法を成立させ、納税額による制限をなくした。25歳以上の男子全員が投票権を獲得し、選挙人が4 倍に増えた。
 1928年には第1 回普通選挙が行われ、立憲政友会が第一党になった。女性への選挙権は1945年になって始めて与えられた。

 

 

 

 

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