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中島宏著『クリスト・レイ』第66話

「だけど、なかなかうまくいかなかったということなのかな」
「そうなの、その通りなの。最初はお互いに大いに喜んだのだけど、時間が経っていくうちに、双方にだんだん違和感が生まれていって、意志の疎通もうまくいかず、徐々に離れて行くという結果になっていったの。それまで抑圧されていた分だけ、自由になったあとはそのままローマ カトリックに直接繋がっていっても当然だったと思うのだけど、でも現実はそう簡単には行かなかったの」
「それはどうしてなんでしょうね、アヤ。同じカトリックのはずなのに、そこに違和感が生まれるということは一体、どこにその原因があるのかな」
「よく考えてみればね、マルコス、そういうこともあり得ないことじゃないわ。
 あの、豊臣秀吉のキリシタン禁令が一五八七年に出てから、明治になって解禁される一八七三年までの、ほぼ三百年の間というのは、外界からの接触がまったくなかったわけでしょう。特に、島原の乱のあった一六三八年以降は、徳川幕府の弾圧が特に厳しくなったし、日本は鎖国制度を布いた上に、ポルトガルやスペインからの人々が入るのを極端に制限してしまったから、キリスト教布教の中心であったイエズス会のメンバーも、誰一人として入国できなくなってしまうという状況に陥ったの。
 つまり、それまでは細々としたものではあっても一応、ポルトガルからの流れがあった日本のキリスト教もそこで、イエズス会を通じてのローマ カトリック教との繋がりをぷっつりと切られてしまったというわけね。しかも、その後は想像を絶するほどの厳しい弾圧、迫害を受けたから、ほとんど息の根を止められるようにして、表面からは消えていかざるを得なかったということね。そういう状況で地下に潜ったままという事態が三百年も続けば、結局、そこに残ったものは、本来あった姿のキリスト教というものからは、かなりかけ離れてしまっても無理はなかったということじゃないかしら」
「つまり、その日本で純粋培養されていったキリスト教は、本来のものとは随分違った形のものに変わっていったということですね」
「と、私は解釈しているのだけど、まあ、それが正しいかどうかは保証の限りではないわ。でも、それはそれほど的外れでもないと、私は思うの。
 だってそうでしょう。何百年という期間は決して半端なものではないし、その後、新しい情報がまったく入ってこなければ、結局それまでにあったものだけで必死に繋いで行くより他に方法はなかったのではないかしら。そしてそれが、自分たちだけのキリスト教というふうになっていっても、何の不思議もないということになるわね。それがつまりは、私たちの持っているキリスト教というものなのね」

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