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知っておきたい日本の歴史=徳力啓三=(18)

《資料》各国の選挙の始まった年

 各国の普通選挙が始まった年を調べるとフランスが1848年、1870年にドイツと米国、英国が1918年、日本が1925年でインドが1949年。女性の参加はドイツが一番早く、1919年、アメリカが1920年、イギリスが1928年、フランスと日本が1945年でインドが1949年となっている。


日米関係とワシントン会議

 日露戦争の勝利によって、日本は東アジアにおける大国となった。フィリピンを領有したアメリカにとって、日本は極東政策の競争相手となった。
 日米間では、日露戦争直後の 1906年頃から、人種差別問題が起こった。アメリカ西部諸州には、ハワイに移民した日本人が、カリフォルニア州へ再移住していたが、勤勉で優秀な日本人移民が、白人労働者の仕事を奪うとして、日本人を排斥する運動が起こった。
 1913年になるとカリフォルニア州で排日土地法が制定され、日本人の土地の購入は出来なくなった。
 1921年、海軍軍縮と中国における各国の権益に関するワシントン会議がアメリカによって提案され、日本を含む9ヵ国が集った。目的は利害を調整し、この地域に安定した秩序を作り出すことであった。
 またこの会議で、米英日の海軍主力艦の保有率は5対5対3とすることが決った。日本は国際協調外交の精神で軍縮を推進した。しかし海軍の中にはそれでは国を守れないとする意見も根強かった。それとは別に20年間も続いた日英同盟をアメリカの強い意向で破棄されることとなり、日本は頼りになる同盟国を失った。

排日移民法に抗議するデモ。1924年8月、在日アメリカ大使館前(Bundesarchiv, Bild 102-00598 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 DE , via Wikimedia Commons)

 1924年アメリカは日本人の受け入れを全面的に禁止する排日移民法を国会で議決した。これに対し、日本の世論は沸騰し、反米感情が進んだ。
 1923年9月関東大震災が起き、東京や横浜で発生した火事で、民家、重要建造物、文化施設など多数が消失、死者・行方不明者が10万人を超えた。
 この関東大震災の結果、日本の経済は大きな打撃を受けたが、近代都市の設計の基準づくりや防災の研究が始まった。幹線道路網や都市公園緑地帯の整備に努め、建物は鉄筋コンクリート造りに変わっていった。


《資料》ワシントン会議

 1921年12月にはワシントンで、5大国の日米英仏伊の他、ベルギー、オランダ、ポルトガル、中国が参加して開かれた。
 米英日の海軍主力艦の制限保有量は52・5万トン対52・5万トン対31・5万トン。航空母艦は5隻対5隻対3隻と決められた。
 日英同盟は、日本にとって安全保障の要であった。これが無くなり、日本は単独でアメリカの軍事力に対抗しなければならなくなった。


《資料》アメリカのアジアへの進出

 アメリカは南北戦争(1865年)以降アジアへの進出を企て、着々と植民地を増やしていた。南太平洋関係の進出年と場所は①1867年・アリューシャン列島、②1867年・ミッドウエー諸島、③1898年・フィリピン、④1898年・ハワイ諸島、⑤1898年・ジョンストーン島、⑥1898年・グアム島、⑦1899年・サモア、⑧1899年・ウェーク島、⑨1912年・パルミラ島の9ヵ所に及んだ。


文化の大衆化と都市の生活

黒船屋。大正時代の流行画家、竹久夢二の作品。1919年(大正9年、Source:Takehisa Yumeji Ikaho Memorial Museum、public domain)

 大正時代には、中等・高等教育が普及、女子教育も充実して、向学心が高まった。
 学問では、柳田国男が激しい西洋化の中で、日本古来の風俗や民間伝承などを記録する民俗学を創始した。
 文学では人道主義を掲げた志賀直哉、武者小路実篤等の白樺派作家が活躍した。耽美的な作品を残した谷崎潤一郎、理知的作風の芥川龍之介らも活発に活動した。
 この頃、共産主義思想が日本に入ったことが特筆される。
 日本文化の大衆化が進んだのも大正時代のこの頃の大きな出来事であった。
 新聞や雑誌など大衆の読み物が流行り、100万部を超えるものが出た。文学全集や主婦向け雑誌、低価格本など多くの種類の本が発刊された。
 ラジオ放送も始まりマスメディアが発達、情報の伝達が速く、一度に広く大量に伝えることが出来るようになった。
 それがまた大衆の政治参加を促し、社会や政治の動きに影響を及ぼすようになった。
 活動写真(無声映画)にトーキー(有声映画)が登場し、レコードで音楽が聴けるようになった。
 大衆小説、歌謡曲、宝塚歌劇、6大学野球などのスポーツなど大衆娯楽、童謡、玩具、遊園地、動物園など子供向けの文化も大いに普及した。
 同じ頃、大都市での生活ががらりと変わった。都市の中心部と郊外が電車で結ばれ、乗合自動車(バス)路線が拡充、日本最初の地下鉄(東京の上野~浅草間)が開通(1927年)した。
 鉄筋コンクリートのビルが建ち、住宅では井戸から水道へ、ランプから電燈へ、かまどからガスコンロへという変化が始まった。
 富裕層の住宅には、ガラス窓のついた洋風の応接間や子供部屋が造られた。
 町も食生活も変わり、日本の都市生活の原型が出来上がっていった。デパートが開店し、商品の種類が増えた。
 カレーライスやコロッケ、トンカツなどの洋食が食べられようになり、キャラメル、ビスケットなどの洋菓子も流行った。
 新しい職業も増え、女性の働く場も次々に開発された。バスガール、電話交換手などの職業、女学生の制服、洋装をする女性(モダンガール)が増えたのもこの頃である。

第2節 第二次世界大戦と日本

世界恐慌とその影響

 大正から昭和へ

 1926年、大正天皇は12月26日に崩御された。摂政を勤めておられた皇太子裕仁親王が皇位を継承し、昭和と改元された。
 世界恐慌と昭和恐慌・第1次世界大戦の後、世界一の経済大国となったアメリカで1929年10月、ニューヨークの株式市場で株価の大暴落が起きた。
 世界的な恐慌が始まり、多数の会社が倒産し、労働者の4人に1人が職を失い、失業者が町に溢れた。

1936年3月にドロシア・ラングがカリフォルニアにおいて撮影した『移民の母』。7人の子供を抱えて極貧生活を送っていた32歳の母親(Dorothea Lange, Public domain, via Wikimedia Commons)

 不況は世界に広がり世界恐慌となった。アメリカへの輸出に頼る日本の経済も大きな打撃を受け、企業の倒産・休業が相次ぎ、大量の失業者を出した(昭和恐慌)。
 農村では1930年の豊作で、農産物の価格が暴落し、農家の収入は激減した。翌年、今度は冷害による大凶作が北海道と東北を襲った。食事をとれない子供たち、娘の身売りが相次いだ。
 世界恐慌に対して、各国は様々な対応をした。世界各地に広大な植民地を持つイギリスやフランスは、本国と植民地との経済圏で重要な商品の自給自足を図りつつ、外国の商品には高い関税をかけ国内の市場から締め出す政策を採った(ブロック経済)。
 アメリカも自国の産業保護に走り、関税を高くし、世界不況を更に深刻にした。ルーズベルト大統領は失業者を救うために国家予算で多くのダムを造るなど大規模な公共事業を行った。しかし、アメリカ経済はなかなか回復しなかった。
 1930年、ロンドンで海軍の補助艦(戦艦、巡洋艦、航空母艦以外の海軍艦船)の制限を議題とする国際会議が開かれた(ロンドン軍縮会議)。
 日本ではこの会議で海軍に不利な協定を受け入れたとして、一部軍人や野党は政府を激しく非難、攻撃した。浜口首相は暴漢に襲われ重傷を負い、内閣は倒れた。
 軍人が政治に口出しすることは、軍人勅諭で禁じられていたが、農村の窮状を目にした若手将校は、その原因を政財界の無能力と腐敗にあると考え、独自に政策を論じるグループが現れた。
 国民も、不況による社会不安の中で、財界と癒着し、政争に明け暮れる政党政治に失望し、次第に軍部に期待を寄せるようになった。


《資料》ブロック経済と日本

 イギリス、フランス、オランダなどのヨーロッパ諸国は広大な植民地を持ち、豊かな資源をもつアメリカは一国だけでも、自給自足が可能だった。
 こうした「持てる国」は、植民地や領土をブロック化し、外部の商品には高い関税をかけて締め出した。
 他方、国内に資源の無い「持たざる国」である日本は原料を購入し、それを製品に加工して輸出することで経済が成り立っていた。
 ブロックによる巨大な関税の壁によって締め出され、日本の製品は輸出先がなくなった。日本は欧米の手法を真似して、東アジアに独自の経済圏(大東亜経済圏)を作ろうとした。


《資料》軍人勅諭

 天皇の言葉として軍人の心構えを説いた文章。1882年に出された。軍人はウソをつくことと勝手に行動することを固く禁じられていた。軍人には政治に参加するための選挙権は与えられていなかった。


共産主義とファシズムの台頭

スターリン(U.S. Signal Corps photo., Public domain, via Wikimedia Commons)

 二つの全体主義がヨーロッパで生まれた。この二つの政治思想が1920年代から1930年にかけて世界に広まった。
 その一つはマルクスの思想に始まり、ロシア革命を引き起こした共産主義である。もう一つはドイツとイタリアに現れたファシズムである。
 どちらも国家や民族全体の目的の実現を最優先し、個人の自由を否定する思想を核心としているので、全体主義と呼ばれた。
 全体主義は各地に革命運動を生み出し、成功したところでは一党独裁と、国家の上に党を置く独特の政治体制を作り上げ、20世紀の人類の歴史に大きな悲劇をもたらした。
 ロシアにおいては、独裁者スターリン(1879-1953)が、ソビエットの指導者となり、多くの反対者を処刑し死ぬまで独裁者として君臨した。

ヒトラー(Bundesarchiv, Bild 183-H1216-0500-002 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 DE , via Wikimedia Commons)

 ドイツでは、独裁者ヒトラー(1889-1945)が、ドイツの民族主義に目覚め、巧みな演説で国民を熱狂させ、ナチス党を大きくし、戦争を始めた。
 共産主義の考えでは、労働者が団結して、資本家を倒し、計画的に経済を運営して、階級による差別のない社会を作ることを理想とした。それを実現するための手段が一党独裁体制であるとした。
 スターリンは重工業を重視し、農業の集団化を進める一方、秘密警察や強制収容所を用いて膨大な数の反対者を処刑した。
 コミンテルンとは、国際共産党の英語の略称で、ソ連は1919年に、世界中に共産主義を広めるための拠点を作った。
 ソ連の本部は、1989年に解散したが、日本の共産党は、1922年に「コミンテルン日本支部日本共産党」を立ち上げ、今も現存する。
 日本政府は、1925年に日本国内に破壊行動や君主制の廃止や私有財産制の否定などの暴力行為が及ぶことを恐れ、治安維持法を制定し、暴動を防いだ。
 イタリアでは、1922年にムッソリーニのファシスト党が熱狂的な国民の支持を得て政権を掌握、やがて独裁政治を始めた。
 ドイツでは、第一次大戦後、巨額の賠償金を背負わされ、激しい物価の高騰に国民の不満が高まった。ヒトラーがナチス党を率いて、民族の栄光回復と雇用の拡大をスローガンに掲げて活動を始めた。
 1932年には国会の第1党に躍進、政権を握った。首相に就任するや、ヒトラーは暴力や警察を使いたちまち独裁体制を作り、共産党の弾圧と再軍備を始めた。
 ナチスは民族の純潔を守ることを理念に掲げ、ドイツ国内のユダヤ人を迫害した。ヒトラーはソ連のやり方をそのまま真似をして、秘密警察、強制収容の手法で大量処刑を行なった。
 ナチスとは国家社会主義労働党の略称で、ヒトラーが支配した時代のドイツ国の政党名。ナチスは強制収容所にユダヤ人を集め、数百万人といわれるユダヤ人を虐殺した。


《資料》各国の共産党設立年

①ロシア・1898年、②コミンテルン本部・1919年、③スペイン・1918年、④ドイツ・1919年、⑤中国・1921年、⑥フランス・1921年、⑦日本・1922、⑧べトナム・1930年、⑨朝鮮・1945年。

 

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