ホーム | 文芸 | 連載小説 | 中島宏著『クリスト・レイ』 | 中島宏著『クリスト・レイ』第76話

中島宏著『クリスト・レイ』第76話

 やっと手に入っても、満足するような量はなく、おまけにその価格は驚くほど高いものであった。しかし、背に腹は代えられず、とにかく入手できるものはすべて購入し、マラリアに罹った人々に与えた。それによって小康状態を保ち、徐々に回復して行く人々もいたが、それでも犠牲者の増加は後を絶たず、結局、このままでは大半の者が犠牲になりかねないということで、この地域から撤退するしか方法はないというところまで追い詰められていった。
 この湿地帯での稲は見事に育ち、まれに見る収穫となるはずであったが、それを刈り取るはずの人間たちが、ことごとく倒れていったのでは、それは何の意味もなさなかった。このような悲惨な結果を招いてしまったことに、平野は衝撃を受け、責任を感じた分、必死になって入植者たちのために駆けずり回ったが、結局、状況は好転するどころか、最悪の事態に突入していったのである。
 この想像もしなかった出来事に、平野は心痛と疲労とが重なることによって強い地酒のピンガを浴びるように飲み始め、それが原因で体調を崩していった。この時点で平野は一旦この植民地をあきらめ、元のグアタパラ農場に戻って、そこから再出発を図るようにと人々を説得したが、集まった人々に誰も賛同する者はおらず、もし、平野が残って戦うのなら、自分たちも死を共にしてもいいと誓い、そこを出ようとはしなかった。
 結局、以後米作りはあきらめ、高地に移って、そこでコーヒーを軸に、とうもろこし、豆など別の農作物を作ることに方針を転換していった。それによって一応、マラリアによる犠牲者の数を食い止めることはできた。
 が、この平野植民地はよほど運が向いていなかったのか、この後も、まるで何かに祟られたかのように、悪いことが重なっていった。方針を転換したその翌年の一九一七年には、思いもかけないバッタの大群に見舞われ、その年の作物が全滅するという事態が生じた。
 それは、この平野植民地だけでなく、この地方の多くの農場も同じようにやられたのだが、このような凶事はいつも起きるというものではなく、誠に不運としか言いようのない、いわば事故のようなものであった。バッタの大群が通った後は、緑のものは何も残らないという徹底した破壊ぶりであり、それを初めて経験した入植者たちは、茫然自失となり、気力も言葉も失ってしまうほどのダメージを受けた。
 さらに、その翌年の一九一八年には、考えられないほどの大型の旱魃がこの地方を襲い、これまた、その年の農作物の収穫が例年の一割ほどにしかならないという極端にひどい結果となった。
 悲劇はそこで終わらず、この同じ年の冬には大霜に見舞われ、せっかく中期的計画として栽培し、ようやく伸び始めていたコーヒーの木がほとんど全部枯れてしまったのである。亜熱帯植物であるコーヒーは寒さに弱く、冬に南極圏から時折り北上して来る大型寒波による霜の被害には、なす術もなかった。
 これほど徹底的に痛めつけられた日本人移民の植民地も、他にはなかったであろう。
 以前から体調が悪化していた平野は、この厳しい状況下で力が尽きたという感じで、翌年の一九一九年の二月にこの世を去っている。

image_print