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特別寄稿=中南米に生きて60年=移民の動機と最初の生業—キノコ栽培への挑戦=元JAIDO及びJICA農水産専門家 野澤弘司=(上)

栃木の寒村で鉄道員の家に生まれて

 今なお世界を震撼させ、終息がおぼつかない世紀のパンデミック、新型コロナウイルス禍に遭遇して、日暮し在宅自粛を余儀なくされ無為に過ごすのも心許ないので、中南米に生きた60年を追憶し、私がブラジルに移民した拙い動機や初期の生き様を寄稿させて頂きます。
 私の生れは栃木県鹿沼市に近い寒村で父親は鉄道員でした。村の目抜きと言っても日光街道沿いのまばらな家並みで、鉄道駅に隣接した社宅から半丁場(約2km)ほど続く田圃の中程にある墓地の前を通るのが怖くて、とても一人では出かけられず、遊び友達はいませんでした。
 その為、学齢期に達する前から気軽に電車に乗っては、東京浅草までの一時間半の一人旅を楽しんでいました。時折の車内検札では車掌たちは駅長の息子と周知していたので、幼児の無賃乗車でも咎められる事無く、運転手の直ぐ後ろの窓越しに自分が運転手気取で立っていたのが想い出されます。
 また父親は職業柄転勤が多く、義務教育が終わるまでに7回も転校するなど、自ずと周辺環境や友人仲間との順応性、そして放浪癖が培われ、三つ子の魂百までと、これが尾を引き後遺症となり、後日ブラジル移民に至ったのかも知れません。
 しかし兄弟6人の大家族は貧しく、更には病弱な父親は1年間の休職を余儀なくされたので、中学3年当時の日曜は、近くの進駐軍の演習場に隣接したゴルフ場でキャディーとして働き、中学生の体躯で バックを担いでの18ホールは厳しいので、常連のアメリカ陸軍大佐は、必要なクラブだけを選び軽量化してくれるなど気遣ってくれました。
 高校は4年制の都立高校の夜間部に入学し、昼はゴルフ場で知り合った大佐の紹介で、東京市ヶ谷の元アメリカ極東軍総司令部(現防衛省)で下働きのメッセンジャーとして働きました。

米軍市ヶ谷基地の下働きで垣間見たアメリカ

 多感な年頃の私は日々アメリカ人と接触し、彼らの生活様式を目の当たりにするにつれ、当時の敗戦国日本の貧しい生活様式とは雲泥の差である、アメリカの物質文明への憧憬の念は嵩ずるばかりでした。同時に将来は何とか日本から脱出したい社会逃避の手段を模索しました。
 当時の日本からアメリカへの移民枠は年間380名程でしたが、アメリカ在住日系人の近親呼び寄せだけで定員の殆どは占められました。それで大学だけは卒業しておくべきと大学と専攻学科を詮索しているうちに、抱いていた将来のアメリカ移民の志望は色褪せてきました。
 それは軍人社会という特殊な集団ではありますが、日々職場で垣間見る殆どのアメリカ人の脳裏の奥に潜んでいると思われる、人種差別からの、有色人種に対する偏見と差別への先入観でした。将来アメリカに住み着いても、自分にはこの差別や偏見に耐え偲ぶ事ができるかの疑問が付きまといました。
 今まで羨望の的となっていた物や金による豊かな物質文明は、考え方によれば個人的な欲望に伴う一過性のものに過ぎず、人種的な偏見はアメリカに住む限り生涯付き纏い払拭できない宿命と悟りました。
 後日談ですがブラジルに移住し7年ほど経った頃、所用で日本に一時帰国した折ニューヨークを経由したので観光しました。タイムズスクエアの街角を始め訪れた先々で、日系二世と思しき複数の若者に道を尋ねた時の彼らの態度や言葉使いは、一律に恰もアメリカ社会から虐げられ、そのはけ口を敗戦国民として見下した同族の日本人に投げかけているかのようで、大変後味の悪い思いをしました。
 もしもサンパウロのど真ん中で、ブラジル生まれと思しき日系人に道を尋ねたとしたら、「おじさん、こっちこっち」とばかりややオーバーな身振り手振りで始まる差別を知らない素朴で大らかな対応がされるだろうと思い較べ、過ぎ去った当時の抱負が蘇り、ブラジルに移住したのは正解だったと自問自答した事が想い出されます。

鹿児島大学に進学、さらに南のブラジルへ

 話は戻り、丁度その頃、鹿児島県坊津出身の池田某の、ブラジル在住鹿児島県人の功成り財成りの成功者の伝記を収録した著書を何度も貪り読むほどに、異口同音に経済的な格差はあるけれど各民族が融合し、人種差別など全く抱かない温厚で赤裸々な国民性、領土の約半分を占める、広大で肥沃な農牧地、熱帯と温帯を共有し、台風や地震など皆無の恵まれた大自然などなど、日本では想像だにできない実態を日本と対比し伺い知る程に、自分は鹿児島大学に進学した後、ブラジルに移住して水産業に携わるとの抱負を固めました。
 しかし高校の学業成績は仕事柄、英語は5点採点方式で4と5の評価でしたが、他の科目はとても国立大学を受験できるレベルではありませんでした。
 それで一念発起して昼はアメリカ軍施設で継続して働きながら受験勉強に専念した結果、2浪にして念願が叶い合格しました。当時私は東京に住んで居たので生来の放浪癖からほとばしる遠く、そしてより遠い彼方への羨望や妄想は現実味を帯びて来ました。
 日本列島南の果ての鹿児島の大学に進学し、さらには地球の果てのブラジルくんだりまで南下して、自由奔放に生きる安住の地とする想いは馳せました。在学中の夏休みは東京の実家に帰省しました。
 当時の国鉄は学生には50%の割引運賃での乗車券を発売していました。私の放浪癖は誰憚る事もなく鹿児島、山陰、北陸、函館、宗谷の各本線を経て、北海道最北端の稚内経由の東京都区内行き周遊券を求めたので、駅員は遠距離賃金表を取り寄せ、時間をかけての計算には当惑気味でした。
 しかし蒸気機関車が吐き出す黒煙で延べ一週間も燻蒸された容貌は、得難い想い出となりました。在学中は日本学生海外移住連盟に入会し、他校との移住情報の共有しながら、ブラジル移住手続きは完了し、大学も人並みに卒業できました。 

乗船前に偶然キノコ栽培の修行

 ここまでの移民に至る動機の経緯を要約しますと、先ず父親が鉄道員で転勤が多く7回も転校したので、頻繁に変わる友達、周辺環境、境遇への同調や馴致の習慣が自ずと身に付いた反面、定着性や自主性が疎くなり常に新しく遠く次なるものを求める放浪癖が培われた事、そして大家族で貧しく高校は夜間部で昼は駐留軍の施設で働いた事による、当時のアメリカと日本の生活水準の格差からの物質文明への憧憬と人種差別を知り、宿命的な貧困から逃避への願望志向が根強い等の、相乗的因果に起因した結果がブラジル移民の動機になったと思われます。
 当時の横浜出航の移民傭船は東航パナマ経由の大阪商船と、西航ケープタウン経由のオランダのインターオーシャンラインズの貨客兼移民傭船とが隔月就航しました。
 ブラジルまでの所要日数は東航の大阪商船が40日、西航のオランダ船が60日と20日程余計になりますが、持ち前の放浪癖からアフリカ経由は千載一遇の機会とばかり、何の迷いも考える事もなく即決し、西航オランダ船でのケープタウン経由を選びました。
 本船の移民乗船者定員は300名程で、神戸、那覇、香港からの乗船者もいるので、私の乗船は8月出航のルイス号と決まりました。
 しかし卒業して8月までの半年間を同伴する伴侶と実家に居候するのは近所への世間体もあり、両親にも申し訳ないので、千葉県の習志野缶詰(株)で移民船が出港する迄の約束で雇用してもらいました。
 当工場は東京湾で獲れる貝類と、自社栽培のマッシュルームの缶詰加工品をアメリカに輸出していました。缶詰加工は大学の専門課程で、理論と工場実習を受講しているので異業種のマッシュルーム栽培を志願しました。
 とにかくキノコの生活史に於いて子実体の形態が日々刻々と変わる姿形に魅せられ、乗船迄の6カ月間でマッシュルームの栽培過程での原菌培養、種菌拡大培養、堆肥発酵、菌床造成、植菌、覆土、菌床と菌舎の空調管理等を体験する事が出来ました。

ブラジルまでの携行資金わずか80ドル

 いよいよ県庁の移住斡旋課から渡航準備の為、出航一週間前に横浜の移住斡旋所に入所すべく連絡がありました。斡旋所では面接による身上調査、身体検査、ブラジル語と現地事情の講座など充実した日々が過ぎました。
 出航前日、当時の東京銀行から渡航者の携行資金の両替業務が斡旋所内で行われました。私の順番になり、ブラジルで当面必要と思われる日本食や日用品、それに世話になる人への土産物等を購入した残りの、手許総額2万9千円を差し出しました。 
 受け取った行員は、「これだけですか??」と不審そうな目付きで念を押し、顔をしかめました。当時のドルのレートは日々の変動制では無く一律に360円だったので、パスポートの最終ページの所定の携行資金記載欄にU$80と記帳し、両替担当者の捺印をしてから100円玉で釣り銭をくれました。
 恐らく後にも先にも日本からブラジルへの移民携行資金U$80は、最低の貧乏所帯だったに違いないと“自負”しています。
 然し「ブラジルに行ったら何とかなるさ」との無謀な若気の至りで、携行資金についてはとかく憂慮しませんでした。私は両親や家族の反対を押し切っての、半ば勘当同然のブラジル移民なので、今更、財産分与を無心できる立場ではありませんでした。

当時の野澤さんのパスポートには携行資金が80ドルと明記されている。大学卒業した年、餞別が3万円だった。1ドルが360円だったので80ドル。当時、初任給は1万5千円程度の時代だった

食べてばかりいた移民船の2カ月間

かすれた音色の蛍の光が哀愁をさそいながらこだまし、色とりどりの別れの紙テープが乱舞する様子。出港前の見送りで賑わう、横浜港山下桟橋の埠頭

 横浜港の山下桟橋には、アムステルダム船籍の貨客兼移民傭船ルイス号、1万5千トンが昼下がりの出航を前に接岸し、船上も埠頭も人また人でゴッタ返していました。埠頭で見送る親族や友人と甲板の欄かんに身を乗り出した乗船者とが、互いに引っ張り合っている色とりどりのテープは交差して閃き、辺りには古びた拡声器から漏れてくるカスレタ音色の蛍の光が何度となく繰り返されては響き渡り、さらなる哀愁に誘われました。
 埠頭には私のブラジル移民をどこで知ったのか、予想外に多くの親戚や友人が見送りに来てくれ、出港間際の群集の中に、計らずもマッシュルーム栽培を体験した工場長が駆けつけてくれ、ブラジルに行ったら役に立つかも知れないと、餞別代わりにキノコ栽培者にはバイブル的存在だった岩出亥之助三重大教授の専門書『食用菌蕈類と其の培養』と白色と褐色(ボヘミアン)のマッシュルームの種菌を、千葉から山下桟橋まで電車を何度も乗り継ぎ、往時の鹿屋の海軍特攻隊上がりの上司は最後まで気遣ってくれました。
 未だ響き渡っていた蛍の光に割り込むかのように、船員が出航合図の枠に吊るした銅鑼をバチで打鳴らしながら甲板を廻り始め見送人は下船しました。
 「頑張れよー!」「長生きしろよー!」「お袋は心配するなよー!」「金さ貯めて早く帰って来いよー!」などなど、粗野だがむき出しな思い思いの情感溢れる歓呼の声に送られながら、移民傭船ルイス号は2隻のタグボートに曳航されながら、夕闇迫る山下桟橋を後にしました。
 本船には100人余りの北海道炭鉱離職者移民、呼び寄せ家族移民、単身者移民、ロシア系難民が数家族乗船しました。最上甲板に特設された移民居住区では、隣との間仕切りや天井を帆布で囲い覆われた個室が当てがわれ、部屋には鉄パイプで出来た蚕棚式の二段ベッドが一脚と寝具が準備されただけの簡素なものでした。
 2カ月間の船上生活に必要な身辺の必需品を入れたダンボール箱は部屋に入れ、他の携行荷物は船倉預かりとしました。我々の個室には冷蔵庫も空調設備も無いので、お土産のうなぎ、明太子や種菌は乗船するや、いち早く言葉を交わした、オランダのアムステルダムの商船学校を出て間もない、青年三等航海士の冷蔵庫とクーラー付きの部屋に保管を依頼しました。

移民用個室には空調も冷蔵庫もないので、お土産の鰻、明太子、種菌類の保管を三等航海士の個室に依頼した(中央が野澤さん)

 横浜を出港して南半球に入るまでは盛夏で、空調の無い部屋は昼間は蒸風呂なので、甲板の日陰で終日麻雀や無責任な車座放談に興じ、時折催される運動会や演芸会や赤道祭りに参会しました。
 一般船員の殆どは英国旅券を所持する香港で雇われた広東人で占められ、片言の英語を理解し、移住者への食事は沖縄から乗船した料理人が担当しました。船会社は日本食ならどこでも同じ料理と味付けと思ったようで、当初は初めて味わう沖縄料理には戸惑いましたが、その内に独特の食味にも慣れ殆ど完食しました。
 朝昼晩の食事以外にも3度の間食があり、食べてばかりいたので運動不足での肥満対策として毎朝晩、動物園のクマよろしく甲板を行ったり来たり船内を徘徊しました。
 とにかく2カ月間の船内生活はどの移住者に取っても、今後の移住先で遭遇するかも知れない不祥事などおくびにも予想だにしない天下泰平の日々を満喫しながら過ごしていました。
 本船は日本列島を後に神戸、那覇、南シナ海の香港、マラッカ海峡のシンガポール、ペナン、インド洋のモウリシャス、ロレンソマルケス、ダーバン、ポートエリザベス、大西洋のケープタウン、リオの順で寄港し、途中インド洋での低気圧、サイクロンにも遭遇する事無く至極平穏な航海を続けました。(つづく、文中敬称略)

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