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知っておきたい日本の歴史=徳力啓三=(22)

占領政策の転換と朝鮮戦争

国連の総会議事堂(Marcello Casal JR/ABr, CC BY 3.0 BR , via Wikimedia Commons) 写真=国会を取り囲んだデモ隊、1960年6月18日(Unknown author, Public domain, via Wikimedia Commons)

 国際連合(国連)が、終戦直後の1945年 10月に、2度の世界戦争を反省し、戦争を防ぐための国際組織として結成された。国際連合は英語でUnited Nationsと言い、第2次世界大戦時の「連合国」のことで、戦争で戦勝国となった連合国側が、戦後も世界の秩序の指導的立場を維持する為に作った組織である。
 日本やドイツのような戦争に負けた国を牽制する「旧敵国条項」は現在も設立当初のまま残っている。
 しかし、戦争の芽はなくならず、ソ連は東ヨーロッパ諸国を占領し、各国の共産党を通して、西ヨーロッパにまで共産主義の影響を及ぼし始めた。アメリカはその影響を封じるために、西ヨーロッパ諸国に大規模経済援助(マーシャル・プラン)を行い、1949年には、ソ連に対抗する軍事同盟として北大西洋条約機構(NATO)を結成した。
 一方、ソ連も1949年には原子爆弾を開発し、NATOに対抗して、1955年に東欧諸国とワルシャワ条約機構(WTO)を結成した。ドイツは東西に分断され、世界はアメリカの資本主義とソ連の共産主義が争う冷戦の時代に突入した。
 中国では、戦争中は抗日で手を結んでいた国民党と共産党が、戦争が終わると国共内戦を始めた。1949年には毛沢東が率いる共産党が勝利し、中華人民共和国が成立した。一方、蒋介石が率いる国民党は台湾に逃れ、国民党政府を立てた。
 朝鮮半島では、1948年に半島の南部にアメリカが支持する大韓民国(韓国)、北部にソ連の影響下にある朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が成立して南北の対立が始まり、冷戦は東アジアにも広がった。
 日本では、冷戦が始まると、アメリカは東アジアの共産主義に対する防壁として日本を位置づけ、また自由主義陣営の一員として、日本の経済発展を抑える方向ではなく、発展させる方向へとその方針を切り替えた。
 1950年6月、北朝鮮は南北の武力統一を目指し、ソ連の指示の下、突如韓国に侵攻した。これが朝鮮戦争の始まりである。北朝鮮軍は一時釜山(プサン)の近くまで占領、これに対し、韓国軍とマッカーサーが指揮するアメリカ軍主体の国連軍が反撃に出た。国連軍は中朝国境近くまで追い返したが、そこで中国共産党軍が、北朝鮮側につき、戦況は一進一退を繰り返した。
 1953年になって休戦協定が結ばれ、戦闘は停止した。朝鮮半島には、67年後の今も南北に分断された状態のままで、休戦中となっている。
 日本に駐留していたアメリカ軍が朝鮮に出撃した後、日本の治安を守るために、日本は1950年8月にGHQの指令により警察予備隊7万5千名(1954年「自衛隊」と名称変更)を募集した。
 また、日本は朝鮮半島に駐留する国連軍に多くの軍事物資を供給するようになり、大東亜戦争で破壊された工場群は建て直され、生産は拡大し、経済全体が息を吹き返した(朝鮮特需)。

独立の回復と米ソ冷戦

 アメリカは、朝鮮戦争をきっかけに、基地の存続などを条件に、日本の独立を早めようと考えた。1951年 9月サンフランシスコで講和会議が開かれ、日本は自由主義陣営の 48カ国とサンフランシスコ講和条約を結び、更にアメリカとの間で日米安全保障条約(日米安保条約)を結び、日本は、アメリカ軍の日本駐留を認めた。
 1952年4月28日サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は独立を回復し、国連軍による戦後の占領が終わった。日本は、独立を果たした後、大東亜戦争で戦場となったアジア諸国に対して賠償を行った。
 ソ連は、北方領土の国後(くなしり)、択捉(えとろふ)、歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)北方4島を不法占拠しているために、日ソ間では平和条約を締結出来なかった。
 1956年10月、日ソ共同宣言で戦争状態を終結し、国交を回復した。これでソ連の反対がなくなり、同年 12月、日本は国連に加盟して国際社会に復帰した。日本が独立し、復興に努めている間、米ソ両陣営の冷戦は激化していった。両国は、原子爆弾より破壊力の高い水素爆弾の開発に成功し、核弾頭を搭載した大陸間弾道弾(ICBM)を配置して、相手国を直接破壊できる攻撃力を備えた。
 1953年、ソ連のスターリンが死去し、1956年の共産党大会でフルシチョフ第一書記がスターリン批判をした。この時期、アメリカとの平和共存の動きがあり、「冷戦の雪解け」と言われたが、社会体制の違いに由来する米ソの冷戦は収まらなかった。
 1957年にはソ連が人工衛星の打ち上げに成功した。アメリカもそれに続き、両国は宇宙技術の開発でも競い合うことになった。

国会を取り囲んだデモ隊、1960年6月18日(Unknown author, Public domain, via Wikimedia Commons)

 同年日本では岸信介首相が日米安保条約の改定を目指し、1960年1月に新条約を調印した。これにより日本の安全保障体制は強化された。
 しかし、日本共産党、社会党、労働組合、学生団体などは広く国民各層に訴え、反対運動を起こした。1960年5月、自民党は新安保条約の国会承認を強行採決をした。国会周辺はデモ隊が押し寄せ、連日のように国会を取り囲む大きな騒乱となった。
 6月19日の批准の日には、国会周辺は人々で埋め尽くされた(安保闘争)。岸首相は新安保条約成立後に辞職した。

第2節 高度経済成長と日本の発展

世界の奇跡・高度経済成長

 1960年、岸内閣が退陣し、首相となった池田勇人は10年間で所得を倍増させるという所得倍増政策を掲げた。自民党は結党の時に掲げた自主憲法の制定や防衛力強化という課題を先送りするようになった。
 日本の経済は、1960年頃よりほぼ毎年 10年間、年率10%という歴史上稀な「世界の奇跡」と言われる成長を続けた(高度経済成長)。1968年には国民総生産(GNP)が資本主義国陣営でアメリカに次いで世界第2位となった。
 ソニー、ホンダ、トヨタなど世界的な企業が成長し、中小企業の工場の現場では無数の人々が、工夫や発明を積み重ね、産業の発展に大きな役割を果たした。
 日本の経済成長は、1955年に10兆円に満たないものであったが、1970年には 15年で約8倍の80兆円となり、1985年には15年間で4倍の330兆円、1995年には10年間で480兆円に達し、アメリカに次ぐ世界第2位の経済大国となった。
 また高速道路網や新幹線の建設も始まり、庶民の生活にも電化製品や自動車が普及した。農村も豊かになり、米は生産過剰になって、減反政策を採った。所得の増加は国内市場の拡大をもたらした。日本の地位は向上し、1964年には東京オリンピックが、1970年には大阪で万国博覧会が開催された。これらはアジアで初めて開催された世界的大イベントであった。
 東海道新幹線は1964年10月1日東京~大阪間で開通し、所要時間は今までの半分近くに短縮し、大きな経済効果を生み出した。また1970年3月14日から9月13日まで大阪万博が開かれたが、6400万人の入場者を得て万博史上最多の入場者を記録した。
 一方、経済の発展に伴い、1960年台後半頃より、工場の煙や排水など産業廃棄物による公害が問題となった。水俣病や四日市喘息などの公害病、自動車の排気ガスなどによる大気汚染、家庭の洗剤による河川の汚染などの解決が求められた。
 これに対し、1971年には環境省が設置され、公害防止の対策が採られ、状況は改善されていった。その後、日本は世界で最先端の公害防止技術を有する国となった。
 東南アジア諸国との戦後賠償は順次解決が図られた。1965年には日本と韓国は日韓基本条約を結び国交を正常化した。日本は有償無償合計8億ドルの協力金を韓国に支払った。日韓基本条約では、第2条で大日本帝国と大韓帝国の間で結ばれた全ての条約は無効とすることを確認し、第3条で大韓民国政府は、朝鮮にある唯一の合法的な政府であることを確認した。
 アメリカの施政下にあった沖縄では、ベトナム戦争が始まり基地の使用頻度が高まり、祖国復帰運動が盛んになった。佐藤栄作内閣は、非核3原則を表明し、核兵器抜きで基地を維持するという条件で、沖縄返還への同意をアメリカから取り付けた。
 1972年5月、沖縄本土復帰が実現した。沖縄本土復帰記念式典には、昭和天皇と皇后陛下が出席された。それ以降、沖縄県と他県との格差を解消する為に、政府は沖縄担当大臣を特設し、様々な経済支援を行い、沖縄振興に力を注いだ。


《資料》新日本国憲法

 天皇を日本国および日本国民統合の象徴と定めた。主権在民を謳い、国会を国権の最高機関とし、議院内閣制を明記した。基本的人権に関する規定も挿入された。また「国際紛争を解決する手段としての戦争放棄」は他国の憲法にも見られる規定ではあったが、「戦力を持たない」と定め、「交戦権を否認した」ことは、他に例を見ない国家の独立性を損なう憲法となった。


《補講》占領下の憲法作成とその成り立ち

 占領期は戦争の続きで、1945年9月に日本はアメリカに占領され、連合国軍総司令部(GHQ)の統治下に入りました。1952年4月に独立を回復するまでの6年8カ月の間、日本には主権がなく、外交権もありませんでした。これほど長期間の占領は歴史上例がありません。
 戦争は国家の意思を、武力を持って相手国に強制することです。ですから1945年8月 15日には戦闘が終っただけで、戦勝国の意志を敗戦国に押し付ける政策は、占領期間中も継続し、戦争が本当に終ったのは、日本が独立を回復した時だと考えることも出来ます。
 アメリカの占領目的は、日本が再びアメリカに武力を持って立ち向かうことのないように、日本の国体を改造することでした。そこでその期間中に英文で書いた憲法草案を与えるなど国家の改造を図りました。それが民主化と呼ばれる一連の占領政策の意味するところです。
 占領期間中に憲法を変えることは、戦時国際法で禁止されています。しかし当時の日本政府はこの原案を受け入れ、日本政府の改正案として扱い、大日本帝国憲法を廃し新しい憲法を制定し、現在も有効な憲法としています。

戦争についての罪悪感を日本人に植えつける

 検閲は戦前にも戦中にも行われていましたが、占領軍は占領直後から新聞、雑誌、ラジオ、映画の全てにわたって、言論に対する厳しい検閲を行いました。空襲や原爆については、報道することも、連合国を批判したり、日本の立場を擁護することも禁じました(プレス・コード)。占領下の学校では教科書の軍事や天皇に関わる記述等には墨が塗られました。
 更にGHQは「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための情報宣伝計画」を軍事作戦として実施したのです。これにより日本人は「悪い侵略戦争を始めたのは日本である」と考えるように仕向けられました。
 GHQはまず初めに日本人が使っていた「大東亜戦争」という用語を禁止し、「太平洋戦争」と呼ばせました。新聞やラジオを通じて、日本兵が犯したとされる暴虐な行為をあることないこと暴き立て、日本人の心に大きなショックを与えました。

東京裁判と国際法

 東京裁判は1946 年5月より2年半にわたって開かれました。戦争中に指導的な立場であった政治家や軍人が被告とされ、被告全員が有罪と宣告されました。
 東条英機以下7名が絞首刑に処されました。東京裁判は、①勝った側が負けた側を裁いた。②裁判官も検察官も勝った側から出た。③勝った側の戦争犯罪は裁かれなかった、という問題があります。
 また「平和に対する罪」などは戦争が終ってから作った罪で、「事後法によって裁いてはいけない」という近代の裁判ではありえない、裁判の原則に反すると言われています。インドを代表して参加したパル判事は、「この裁判は国際法上の根拠を欠いている」として、全員の無罪を主張しました。しかしGHQはその意見書を公開せず、無視しました。

マッカーサーの反省

 東京裁判開廷の最高責任者であるマッカーサーはこの裁判を積極的に進めましたが、戦争を始めた人を、新たに設けた「平和に対する罪」で裁くことが正しいのか、という疑問を最初から持っていました。
 1950年10月、彼がトルーマン大統領に会った時、同年6月から始った朝鮮戦争を取り上げ、国家の指導者を平和に対する罪で裁いても戦争を防止することはできないと、東京裁判について疑問を述べました。

占領下の検閲と東京裁判

 占領下では連合軍への批判は一切許さない徹底した検閲が行われました。その中で開かれた東京裁判に関することは、一切報道されず、日本人の目に触れることはありませんでした。

 

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