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移民の味=開店直後にコロナ禍直撃=めげす営業続けるアラブ料理店

店頭でのサラムさん

店頭でのサラムさん

 「今年初めてこのランプを灯すんですよ」
――年明け1月7日の昼食時、一軒のレストランにつるされたモザイク模様のランプから色とりどりの光がこぼれ出した。この手工芸品的なランプがレストランのオーナーの手作りなら、ユニークな壁や天井の室内装飾もオーナーの作品。そこで提供されるアラブ料理の味は、サンパウロの数あるアラブ料理店とは一線を画する。絶妙なスパイス遣いで、スパイス感を感じさせない風味が日本人の舌にも優しい。
 「サンパウロのアラブ料理は大半がレバノンに由来します。シリアのアラブ料理の味は少し異なるんですよ」
と語るのは、昨年2月にサンパウロ市ベラ・ビスタ地区の目抜き通りで、アラブ料理店『デリシアス・ド・サラムをオープンしたサラム・アルサイドさん(57歳)だ。
 営業開始した2週間後には、夜は若者が出入りする地域であることも後押しして、おいしさと一般的なアラブ料理よりもかなり安いことが魅力で店は満員御礼となり、幸先の良いスタートだった。
 ところがオープン1カ月後にパンデミックに突入。飲食店は厳しい現実を突き付けられた。ネット社会に疎く、ポルトガル語も不慣れな中、これまで親身に助けてくれたブラジルの友人たちが協力して、試行錯誤でiフードやデリバリー、テイクアウトのシステムを取り入れ、難局を乗り越えてきた。
 9月には客の受け入れも再開し、クリスマスや年明けにはオリジナルのセットメニューやアラブ菓子が好調な売れゆきとなった。iフードのお客さんも少しずつ増え、昼は料理4品(ジュース付)R$25、夜はシァワルマ(アラブ風サンドイッチ)R$15~18が人気メニューとなっている。
 「大変な状況ですが、料理やお菓子を作っていると、シリアで造形アートの仕事をしていた時間に近付けます」
と、笑顔を忘れず落ち着いて日々の業務をこなすサラムさん。レストランをオープンする前からアラブ菓子を販売し、バターは牛乳から手作り、チョコレートもカカオマスから手作りの徹しよう。メニューも豊富で、パレスチナの伝統料理も注文できる。
 サバイバルのプロとも言えるその生き様のルーツは、シリアの首都ダマスカスで難民家庭に生まれた時にまでさかのぼる。サラムさんのパレスチナ人の両親は1948年、イスラエル誕生の年にパレスチナの地を去り、ダマスカスに難民となった。
 姉と5人の弟妹とともに同地で生まれ育ち、1971年に父親が政府に連れ去られて帰らぬ人となり、末っ子を妊娠中だった母親は子供たちを連れてダマスカス郊外のヤルムーク難民キャンプに引っ越した。
 ヤルムークはダマスカス南部の一地区に発展を遂げたが、シリア戦争で爆撃を受け、親戚と一緒に住んでいた7階建てのビルも、自らの職場だったアトリエも全て破壊された。サラムさんと長男は2015年にブラジルに、他の家族はヨーロッパ各国に離散して生活するようになった。
 シリアでは造形芸術家として、彫刻、陶芸、タイルのデザイン、石膏パネルの装飾、そして家、オフィス、店舗の天井内張りの施工など多くの仕事を手掛けていた。アトリエを構えて20人のスタッフと共に働いていたが、全てを戦争で失った。シャワルマやハンバーガーを販売する軽食店も経営し、良い生活を送っていた。ウード(アラブの弦楽器)も制作し、その演奏家でもある。
 子どもの頃からお菓子を作って販売していたため、その経験と度胸、天性のアートの才能が所変わっても奪われることない財産である。今サンパウロで、そんな本場シリアのアラブ料理を味わえるのが『デリシアス・ド・サラム』だ。住所=『Deícias do Salam)』(Rua Conselheiro Carrão, 400 – Bela Vista)

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