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特別寄稿=□自然の中で□カエルについて=聖市在住 醍醐麻沙夫(だいごまさお)

カエル(Renato Augusto Martins, via Wikimedia Commons)

 私たち人間はいったい蛙にたいしてどのような感情をもっているのだろうか? 愛情をこめた親近感を抱いているのだろうか?
 人間は蛙を愛しているのだろうか。あるいは憎んでいるのだろうか。
 私たちの身の回りにはよく分からないこと、謎めいたことがいっぱいあるが、蛙と人間との関係というか距離も私にはよく分からないことの一つである。
 魚や小鳥を飼うように蛙を飼っている人はあまりいないし、蛙を愛しているという人の話もあまり聞かない。しかし、人間がこの世界を住みやすいと感じるためには、蛙はどうしても必要なアクセサリーのようなものでもある。
 「身の回りに自然が少なくなった」と嘆かない人はあまりいないだろう。ほとんどの人がそのことを感じている。では、その自然とはどういうものかというと、たいていの人のイメージではいわゆる田園風景のようなものである。日本風にいえば、野原や田んぼに赤とんぼとかオタマジャクシがいて、夜になれば蛙がないて蛍が飛んでいる・・そういう風景である。
 私のこういう描写に反対する人はあまりいないと思うが、とにかくここで例にだした四つの生物のうち半分がカエル関係で、オタマジャクシと蛙が親子で登場する。
 しかし、だからといって「人間は蛙を愛している」と断言できるかどうかは疑わしい。
 オタマジャクシなら可愛いという感情があるだろう。さらに赤とんぼとか蛍についてなら、おおくの人が「愛している」と答えるだろう。しかし蛙となるとどうだろうか?
 ハドソンは『ラプラタの博物学者』のなかで赤とんぼのことを「気品のある昆虫」と呼んでいる。たしかにそう言われるとピンと張った翅といい、色といい気品がある。
 そういう、短いが印象的な称賛の言葉が蛙について書かれたのを読んだ記憶は私にはない。なにかなかったかと記憶をまさぐっていたら幸田露伴の随筆にガマガエルを飼っている人の話があったのを思い出して本を探して読んでみたが、短い文章だし「奇癖ある人も世にはあるものなり」と結んでいるように露伴はべつにガマガエルのことをちっとも褒めていない。飼っている人を奇人扱いにしている。
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 これは明治の随筆だが、現代でも蛙についてつよい思い入れをもっている人は少ないというか、あまりいないのではないか。それでいて、自然の風景を思い描くときにオタマジャクシや蛙は私たちにとってはなくてはならないものである。田園風景のなかに蛙がいなくては淋しい。もし蛙が絶滅するようなことがあったら私たちにとってはたいへんなショックにちがいない。
 それでいて蛙をすごく愛しているという訳でもない。つまり、蛙と人間の関係というものは不可思議な謎であり、私にはよく分からない。

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 私は小説家を志したとき、それまでのサンパウロでの仕事をやめて、はじめに弓場農場に四ヵ月ほど居候し、それから海岸の村のアナジアスで日語教師になった。両方とも農村地帯なので蛙、とくにガマガエルが身近にたくさんいた。
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 アナジアスにはずいぶんカエルがいた。食用蛙やガマガエルのような大物からごく小さな青ガエルまで種類も数もおおかった。
 教師として赴任してきた最初の日、荷物をどうやら運び込んで片づけてもう夜になってから用をたしにトイレにはいった。田舎のことだから住宅とは別になっていて電気もひいてない。真っ暗ななかですわったら、いきなり冷たい手でお尻をなでられてヒヤーッと悲鳴をあげてとびだした。懐中電灯をもってきてトイレをてらすと、便器のなかにおおきなガマがいて私が座ったので外にでようと焦って私の尻をなでまわしたのだと分かった。便器を蹴り付けるとぴょんと飛びだしていった。
 あとで知ったが、そのガマは教員住宅の便器のなかがお気に入りで、よく中に入っているのだった。人間が使うときはトントンと便器を蹴ると飛びだしてくる。周辺には何匹かガマが住み着いていたが、便器にはいる癖のあるのはどうやらその一匹だけらしかった。
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 ある雨の日など私が道に立っているよこをカエルがヘビに追われて逃げていった。カエルはぴょんぴょんと猛烈な勢いで跳ね、ヘビはS字状にうねりながら追っていった。立っている私のことなど両者とも眼中にないようだった。やがて草むらにはいったので結果は分からないが、カエルがあれほど連続して跳躍するのもはじめてみた。
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ニホンヒキガエル(通称「ガマ」、Yasunori Koide, via Wikimedia Commons)

「蛙の面に小便」という言葉がある。なにを言われても平気でシャーシャーとしていることの例えだと理解していたのだが、これは大変な誤りらしい。
 私が居候をした弓場農場の電灯のしたには夜になるとガマが集まる。電灯の光にあつまるカナブンブンなどの虫を食べにくるのだ。そのガマに小便をかけたことがあるが、小便をかけられているときは動かないが十秒くらいすると「イヤー、ヒリヒリする」という感じで水のある処へすっ飛んでいく。小便には塩分があるから、おそらく蛙の皮膚はその塩分に耐えられないにちがいない。試みに耳掻き一杯ほどの塩を背中にのせると、やはり泡食って逃げていく。
 それで私は、一見平気そうだが実は内心ではこたえている状態を「蛙の面に小便」ということにしたが、一般の慣用とずれがあり、この例えはあまり理解してもらえない。
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・・そうやって蛙のことを思い出すと、牧歌的なことが付随してくる。というより、牧歌的な思い出にはかならず蛙が登場する。
 蛙は人間が求めている、あるいは必要とする本質的なものと、どこかで深く係わっている存在のようである。蛙の属性のなかには人間にとって必要不可欠なものがあるらしい。かといって、「私は蛙を愛している」ともいえない。ヒトとカエルの関係にはやはり謎が含まれている。

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