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違約多く辛酸なめた「松原移民」―未整地で道路なしー男たちは原始林に入ったードウラードス入植、今年50周年

7月16日(水)

 故・松原安太郎氏は戦後、ブラジル政府移民審議会に申請、正式に許可を得てマット・グロッソ州ドウラードス植民地を創設、戦後移民受け入れの道を開いた。「松原移民」第一陣が、五十年前の今月七日にサントス港に入った。翌八月下旬までに、六十四世帯が新天地に第一歩を印した。入植までに整地は済んでいるという約束だったが、現地は原始林のままで開拓にあたって、辛酸をなめた。日本での移民募集に携わり、自身、第一陣入植者として渡った梅田幸治さん(和歌山県出身、七九)に移民導入にまつわる秘話などを聞いた。
 五二年三月。横浜港にシボレー社の乗用車が下ろされた。所有者は松原氏。移民募集を兼ね、祖国凱旋をしようというのだ。
 同氏は帝国ホテルで旅装を解いた後、故郷、和歌山県日高郡に向かった。
 「誰が、松原さんを補佐するのか」。関係省庁などの折衝、移民募集のための講演会など、一連の仕事をボランティア同然で引き受ける人はいなかった。
 が、建築技師だった田ノ岡耕さん(故人)が名乗りを上げた。梅田さんのおじだ。青年運動に関わっていた梅田さんにも声がかかり、「かばん持ち」として、松原氏を支えた。
 当初、和歌山県内だけで、移住者を集める予定だった。申し込みは期待通りに入らず、広島、山口など他県にも足を伸ばした。
 第一陣二十二世帯百十二人は夢を膨らませて、オランダ船、ルイス号に乗り込んだ。
 移民導入に当たって、梅田さんは官民の要人と会った。出発のおりに、緒方竹虎元副総理、早川崇元労働相らに激励された。
 サントス港で下船した一行は、カンポグランデ市(MS)を経由、ドウラードスに入った。
 収容所に数カ月も止まらなければならない羽目に。整地が済み、植民地までの道路も通じているという契約だったのに、受け入れ準備は何も出来ていなかったからだ。
 「約束が違う」。移住者からは、非難の声が上がった。松原氏は、「パラグアイ人に百五十万円を支払って請け負わせたが、金銭を持って逃げた」と、答えたという。
 しびれを切らした移住者は、女性、子供を収容所に残し、男性だけが原始林に入って、木を切った。
 伐採作業は重労働でカフェを植え付けるまでに、数カ月を要した。収穫出来るまでには数年かかったため、米やトウモロコシを栽培してしのいだ。
 松原移民に関して書籍を刊行したいと、日本から取材の申し込みが幾度となく入ってきた。「松原さんの人格に関わってくる問題も含まれていたから」と、断らざるを得なかった。 
 土地は肥沃だった。片山利宣氏(ドウラードス文協元会長)、西岡清治氏ら戦前移民の指導を受けたこともあり、カフェは順調に成長、生活も徐々に潤っていった。
 移住地は「ビラ・グロリア」と名付けられた。ジョアン・ゴウラル大統領(当時)を迎え、五〇年代末に命名式が開かれた。 
 梅田さんは子供の教育を考えて、七〇年にビリチバ・ミリンに移転した。子供六人はすべて結婚、親の手を離れた。
 「国民は気持ちが大きくて親切。年を取るにつれて、ブラジルの良さが分かってきた。万年青年でいたい」と、話している。

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