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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇

わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(45)

 そこで、資金のメドを立てるために会長以下の全役員は、毎週日曜日に各隊員の各戸訪問をし、打診してみることにした。前年の7月から9月までの3ヶ月間、予備調査をし、その結果ようやく一人の代表を青年隊自力で送りだすことができる自信を得たのである。  しかしながら、それは単なる紙面での予算であり、確実な数字ではない。全伯に散在している青 ...

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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(44)

 青年隊の中には、妻帯し、5~6名の子の父として、円満な家庭と経済的基盤を築き、子弟の教育は勿論、県人コロニアの範たる中堅指導者として多くの成功者と肩を並べて手広く商売を営む者、また模範的篤農青年としての農業経営者、あるいは工業経営者としている者が輩出している。  いまやあらゆる方面に於いて青年隊は、それぞれの個性に沿って、種々 ...

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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(43)

 そして資金面で一致結束できる見通しがようやく判明した。そこで3ヵ月後の9月臨時総会を召集し、資金調達の予備調査の結果が報告され、母県への代表派遣を正式に決定。その代表に山城勇を正式に決定した。  私自身は決して喜んで引き受けるのではなく、事の重要性を自覚していながらも、既に述べた諸般の事情もあり、仕方なく引き受けるのであった。 ...

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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(42)

 在伯沖縄青年隊の組織づくりの始動  とにかく第一次隊の1957年から10年目の1967年にサンパウロ市在住の何人かが集って10周年を祝ったらしいが、それは決して正式な組織活動ではなかった。それにしても青年隊のよしみは深く頼母子講をそれぞれの地域で発足させ、各自の起業や結婚資金に丹精をこめて蓄えていた。  当時、私は自宅の建築や ...

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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(41)

 6 在伯沖縄青年協会の創立と  在伯沖縄産業開発青年隊代表の派遣移民青年隊の海外移住が実現したその実態を語る前に、「鉄の暴風」によってやきつくされて敗戦の虚脱状態の中から一部識者の呼びかけに応えて、部落あるいは村の青年団が結成されるようになり、間もなくして地区・沖縄全体の青年連合会(略称沖青連)が組織されていった。その活動と歩 ...

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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(40)

 言葉は全然話せないままウチナーグチで手まね足振りしながらなんとか務めをはたした。  ところで、母にとっては偶然ながら6人の従姉妹がブラジルにいた。サンパウロの仲本の祖父さん、カミロポリスの玉那覇のばあさん方、ウッチンガの大田、パーリキ・ダ・ナソエスの照屋と大田のばあさん方で、皆戦前移民であった。  そして、いつも週末、月末にな ...

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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(39)

 しかし、私にとってはまだブラジル一年生で生計も充分でないこれからという時代(1963年頃)だった。ところが先輩移民のこうした要請を蔑にすることは、特に青年隊移民で世話になって移住した自分にとって無礼は許されず、家族を説得し時々参加せざるを得ない立場となった。  ところが時を同じくしてわが住宅の建設も始まり多忙を極めていた。しか ...

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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(38)

 同氏は市内中央区の自分の家でキタンダを経営しながら安定した生活を営み、日系人から生活上の依頼や要請があればそれに応えてくれる世話好きな性格と寛容さで、市内に住む県人たちからの信望を一身に受けていた。  1955年に在伯沖縄県人会サント・アンドレー支部が創立された際には、その中心的立役者となって奔走した。同氏は昭和8年(1933 ...

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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(37)

 それで義弟実のフエイラに合流し共同でシヤカラ(農園)を経営することにしたのであった。それが大変好調であり約4ヵ年間も継続した。家族総出で植えつけた蔬菜の稔りを夜も明けぬ前から摘み取り、荷馬車に積んでフェイラで売りさばく労働は、働けば働くほど充実した結果をもたらした。  このような中で、姉のトヨ夫山城茂雄一家7名、及び妻千枝子の ...

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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇 =(36)

 幸い小柳さんの鶏舎作りの手法を学びブラジル人耕地のユーカリ樹を買い受け伐採して家の柱に、更にボルクスワーゲン社工場より廃材の箱板をもらい受けたり、氏の手厚い厚意と支援で事はスムーズにはこんだのであった。謂いようのない感謝の毎日であった。しかし奥地で一農年働いて貰った6コントスだけが手持ち資金でありこれではどうにもならない。   ...

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