朝川甚三郎不運の半生
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朝川甚三郎不運の半生―終―晩年の最も幸福な一日―教え子たちが慰問に来た
9月27日(土) 二〇〇二年六月十六日。朝川は朝早くからそわそわして気が落ち着かなかった。朝食もとらず、玄関でしきりに外の様子をうかがっていた。旧昭和学院の卒業生たちが大型バス一台を借り切って、慰問
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朝川甚三郎不運の半生―8―息子の死後、言動に異常―嫁はひっそり別離
9月26日(金) 「誰かに狙われている」。 テルノリの死後間もなく、朝川の言動に異常が目立つようになってきた。一人息子を失ったショックがあまりにも大きすぎたのだ。 介護に当たったのは嫁のきよ子だ
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朝川甚三郎不運の半生―7―内助の功、妻さきさん=息子は強盗に射殺される
9月25日(木) 旧昭和学院の創立四十周年記念史には、卒業生の名簿が記載されている。八九年の時点で千五百人あまりが朝川の元を巣立っていった。医学士、工学士、文理学士などがずらりと並ぶ。山下譲二ブラジ
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朝川甚三郎不運の半生―6―日学連不祥事で求心力喪失―〝不思議な力〟にすがる
9月24日(水) 安江信一旧日学連事務局長の自殺(八七年四月)と前後して、元日本語教師の故折橋シズさんが訪日。「エスパーシール」と呼ばれる指先大の特殊なシールをブラジルに持ち込んだ。ESP(イーエス
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朝川甚三郎不運の半生―5―語普センター発足後―日学連の内紛火吹く
9月23日(火) 日学連、日文連、文協の日系三団体と政府機関の事業団、国際交流基金の思惑が複雑に絡みながら、日本語普及センターは八五年五月に、発足した。この頃、日学連では内紛が火を吹いていた。下本八
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朝川甚三郎不運の半生―4―国語として日本語教育―かたくなに拒んだ
9月20日(土) 「外国語としての日本語教育」──。六〇年代に入ると、ブラジル生まれの二世、三世にとって母国語はポルトガル語、日本語は外国語である、との認識が生まれた。 世代交代でブラジルへの同化
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朝川甚三郎不運の半生―3―78年、皇太子ご夫妻を歓迎―絶頂、華やかだった時期
9月19日(金) 「さくら、さくら、やよいの空よ、見渡すかぎり…」。 七八年六月十八日のパカエンブ競技場(サンパウロ市)。ブラジル日本移民七十年祭の記念式典が開かれ、八万人が会場を埋め尽くした。来
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朝川甚三郎不運の半生―2―サンパウロ市近郊―青年連盟の初代理事長―昭和学院を開校、生徒に体罰
9月18日(木) 勝ち組の流れをくむ組織、全伯青年連盟が各線有志を結集して一九五〇年一月、マリリア市(SP)で産声を上げた。会員総数三万人とも四万人とも言われた大所帯だった。 これに先立つ一年ほど
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朝川甚三郎不運の半生―1―臣道連盟活動に関与―最後の居場所、厚生ホーム
9月17日(水) 二〇〇二年六月三十日、臣道連盟の指導者の一人、朝川甚三郎がサントス市内の病院で家族に看取られることなく、八十九歳の生涯を終えた。死後、親族の手で辛うじて、コンゴニャス墓地(サンパウ