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朝川甚三郎不運の半生―4―国語として日本語教育―かたくなに拒んだ

9月20日(土)

 「外国語としての日本語教育」──。六〇年代に入ると、ブラジル生まれの二世、三世にとって母国語はポルトガル語、日本語は外国語である、との認識が生まれた。
 世代交代でブラジルへの同化が進行、「継承語教育」に子供たちがついていけなくなり始めたのだ。その結果、従来の日語教育のあり方に対して、疑問が投げかけられるようになった。
 日本的な道徳観念を教え込もうとする朝川は、新しい時代の波に乗り損ねてしまう。いや、むしろ、拒否した、と言ったほうが、適切かもしれない。
 「日本語を教えるだけなら、ただの職業教師。日本語教育ではなく、日本語教授じゃないか」。そう漏らしては、子供たちの将来を懸念した。
     ◆
 日学連、日伯文化連盟(日本語普及会)、文協が〃業界〃での主要三団体だった。
 日系人を含めたブラジル人向けに事業を展開していた日文連が主導して、八〇年代初め、統一機関をつくる運びになった。日本語普及センターの設立構想だ。政府機関の事業団や国際交流基金も関わった。
 基本理念には「外国語としての日本語教育」が含まれていた。朝川は、始め、日学連の参画を頑なに拒否した。
 しかし、三団体のうち、地方の学校を傘下に収めていたのは、日学連だけで普及センター発足に欠く事の出来ない存在だった。三団体のバランスを取る形で朝川は渋々、運営委員会に名を連ねることになる。
 「日学連が協力することについて、内心は、絶対に納得していなかった」(関係者)。
     ◆
 「日学連の天皇」――。ある人は、朝川の存在をそう表現する。肩書きは総務だが、朝川が組織運営を取り仕切っていた。会長職はあくまでも、飾りにすぎなかった。
 反対する者は容赦無く、切り捨てた。教師たちをこき使って、気に入らなかったら怒鳴り散らすことも。一方でカフェの好きだった朝川は、講習会などの行事では、自ら、カフェを入れ、教職員に振舞った。
 日学連元理事の国井精さん(山形県人会副会長、六六)は「ワンマン経営が目立って疎まれたりしたが、教育に対する熱意は強かった」と敬意を払う。
 朝川は文章を書くのが好きで、書斎でよくペンを走らせていたという。移民八十年祭(一九八八年)が終わった頃に、『日系コロニヤ教育事情概要』(原文まま)を残している。 
 四百字詰め原稿用紙十九枚にわたる作品だ。その中で、戦後の日本語教育は戦勝派によって守られたと訴えている。
 朝川はヘビースモーカーで、一日に最低二箱は空けた。灰皿はいつも、吸殻で埋り、煙草に火が付いているうちから、もう次の一本に手を伸ばした。
 その姿は、喫煙によって過去の事を忘れ、精神のバランスを取っていたかのようだった。一部敬称略。
(つづく、古杉征己記者)

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