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朝川甚三郎不運の半生―1―臣道連盟活動に関与―最後の居場所、厚生ホーム

9月17日(水)

 二〇〇二年六月三十日、臣道連盟の指導者の一人、朝川甚三郎がサントス市内の病院で家族に看取られることなく、八十九歳の生涯を終えた。死後、親族の手で辛うじて、コンゴニャス墓地(サンパウロ市)に埋葬された。だが、今年、一周忌の法要を営もうと言い出す者は一人もおらず、めいめいが墓参を済ませることになった。戦後の混乱期に、旧昭和学院を開校。旧ブラジル日本語学校連合会(日学連)の創立メンバーで、総務担当として会の維持運営を実質的に取り仕切った。しかし、不明朗会計が発覚。右腕的な存在だった安江信一事務局長(当時)が八七年四月、短銃自殺を遂げ、求心力を一気に喪失する。さらに、最愛の一人息子、テルノリも二〇〇〇年六月、殺人事件の犠牲になってしまう。行き場を失った独居老人が最後に居場所を見出したのは、サントス厚生ホームだった。

 朝川は日中戦争(一九三七年)が始まる前に、姉のたもつ(故人)を頼って、妻、さき(故人)と渡伯。アグードス市(SP)で綿の栽培をしていた。その後、姉夫婦がマリリア市(SP)、トゥパン市(SP)と移転。朝川も行動を共にした。
 姪の山口(旧姓及川)フサエさん(七四)の記憶では、マリリア市に住んでいた頃は、太平洋戦争前でトゥパン市に移った後、戦争が始まった。
 朝川は、移住先国の生活様式を受け入れず、日本精神を持ち続けるべきだとよく口にしていた。
 字を教えてやると言って毎晩、姉の子のうちフサエさん、和夫さん(七一)、文子さん(七〇)の三人を自宅に呼んで、二時間ほど日本語を教えた。
 「そりゃ、厳格な人でした」と、フサエさんはおじの人柄を語る。
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 薄荷や絹はアメリカの軍需品になると伝えられ、戦中、各地で利敵産業の撲滅運動が起こった。朝川はこれに同調、養蚕小屋の襲撃を繰り返した。その延長で臣道連盟に関与していった。
 終戦後、戦勝派と認識派の対立が深まっていった。四月一日事件(四六年、古谷重綱元駐アルゼンチン公使邸襲撃、野村忠三郎元日伯新聞編集長暗殺)が発生。臣道連盟本部(サンパウロ市ジャバクアラ区)は家宅捜索を受けた。
 吉川順治理事長ら幹部は検挙され、一部はアンシエッタ島に流島処分となった。朝川もこの時、身柄を拘束されたが、数日後に釈放されている。
 上層部の抜けた臣道連盟には、留守本部が設置され朝川は責任者となった。もともと舎監という肩書きを持ち、泊まり込みで本部の管理に当たっていた。会計担当の故山内健次郎が記した『世界大戦の余波』中、朝川は理事となっている。
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 キンターナ市(SP)から上聖した北村進平、山下広美、日高徳一が臣道連盟本部に立ち寄り、朝川に暗殺計画をほのめかす。朝川は、直接行動に出るなと、諌めるが、三人はほかの仲間とともに計画を実行に移す。野村暗殺後、臣道連盟に駆け込できた山下に朝川が着替えを渡し、乱れた髪に櫛を入れる。
 高木俊郎著『狂信』(角川書店)で、朝川が四月一日事件について触れ、涙を流す件(くだり)がある。
 三人の友人で〃特行隊〃の同志でもあった押岩嵩雄さん(九四、広島県出身)は「朝川の元に相談に向かったというのは、事実ではありません」と言い切る。
 さらに、「私がカーザ・デ・デテンソンに入れられた時、朝川が面会に来て、臣道連盟とテロ事件とは関係無いと突き放した」とも。
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 《関東軍宣撫班に所属、特務機関の命令でブラジルに渡り、移民の間の思想傾向を調べていた。調査内容は報告書にまとめ、総領事館を通じて日本政府に提出した。ブラジルには数人の特務班がおり、責任者は坂元靖といった》
 朝川は九〇年ごろ、渡伯の目的について、宮尾進人文研前所長にそう話している。客観的に考えて、有り得ない話だが、本人は事実だと思い込んでいたようだ。戦後既に四十五年も経っていたが、戦中、戦後のこととなると、どうも内容が支離滅裂になってしまう。一部敬称略。
(つづく、古杉征己記者)

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