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朝川甚三郎不運の半生―5―語普センター発足後―日学連の内紛火吹く

9月23日(火)

 日学連、日文連、文協の日系三団体と政府機関の事業団、国際交流基金の思惑が複雑に絡みながら、日本語普及センターは八五年五月に、発足した。この頃、日学連では内紛が火を吹いていた。下本八郎会長(当時)と朝川(総務担当)の関係が修復不能までにこじれたのだ。
 池森春三元会長の死後、朝川自身が頼み込んで、下本会長にトップに立ってもらった。経営が余りにも杜撰で会計士の下本会長は、口を挟まないわけにはいかなかった。
 日学連の会長職は飾りだという程度にしか認識していなかった朝川にとって、下本会長は目障りな存在に。そこに、普及センター設立構想が持ち込まれ、下本会長は賛意、朝川は反意を示した。
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 全伯日本語教職員講習会が八六年一月~二月にかけて実施された。助成を行った事業団に提出した決算報告書が、領収書不備で差し戻され、年を越しても書類は整理されないままだった。担当者は朝川だった。
 どういう経路を辿ったのか判然としないが、不明朗会計が邦字紙上で暴露された。これに対し下本会長は八七年四月十日、旧事務所(文協ビル)を閉鎖、調査に乗り出した。
 下本会長は「法律的には正当な措置だった」と自信を持って主張。自身の判断に過ちが無かったことを強調する。
 実はこの講習会で、余剰金が出た。組織の運営費に回すため、安江信一事務局長(当時)の個人口座に預金された。正式な決算報告書を作り直せと言われても、作成出来るはずは無かった。
 下本会長が強硬な手段をとった時点で、朝川は既に除名処分にされていた。法律的には、銀行口座を貸した安江に特別背任罪の容疑がかかってきた。
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 両者の関係が険悪化するにつれて、日本語教師は朝川から一人、二人と離れていった。最後まで朝川の元に残ったのは、昭和学院と同じ聖西地区に属する教師だった。
 「〃朝川派〃と表現するのはしっくりこない」と関係者たちは首をかしげる。安江を窮地から救い出すことが、最重要問題でそれが出来るのは朝川しかいなかったからだ。
 同月十五日の理事会を前に、十二日夜、昭和学院で会議が持たれた。出席者は朝川に詰め寄った。「日学連の経営はあなたが握っていたのだから、きちんと責任をとっていただきたい」。
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 会議は深夜過ぎまで続いた。議論が白熱化してきたころ、安江より電話が入った。「事務上の手違いはあったが、金銭には手をつけていない」(後日の朝川談話)。思いつめた様子で朝川に助けを求めてきたのだった。
 二人は長時間にわたり、通話をした。当時日本語教師だった古城芳さん(富山県人会事務局長、七二)によると朝川は終始、煮え切らない態度だったという。
 受話器を置いた安江は間もなく、スザノ市(SP)の自宅でこめかみを撃ちぬいた。
 古城さんは「俺がついているから、最後まであきらめるなというぐらいは言えなかったのか」。日学連元理事の国井精さん(山形県人会副会長、六六、会議には欠席)は「どんなことがあっても一緒にがんばろうと励まして欲しかった」と朝川の電話での応対に幻滅した。
 現場に残された三通の遺書の中で、朝川に厳しく注文がつけられていた。「先生の力のみで方向付けられ後輩養成が出来ないままに今日を迎えております」。一部敬称略。
(つづく、古杉征己記者)

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