日本人の海外発展史にあって、二十世紀はブラジル移住の世紀でもあった。移民前史からのほぼ百年をかけて二十五万人余が移住。扶植された子孫は百四十万人におよび、海外最大の日系集団地を築き上げた。この間、コロニアは各分野に多くのパイオニア、指導者を得て、裾野の広い活動を営んでくることができた。そこで今世紀最後の年にちなんで対伯移民史を通観し、「二十世紀ッコロニアの二十人」を以下に掲げてみた。もとより本紙編集局内にとどまる評価だが、改めてこれら偉材、俊傑の事績を振り返ることで二十世紀へのレクイエムとしたい(掲載は五十音順=敬称略)。
赤間みちへ
赤間みちへ
一九〇三年、宮城県生れ。東京女子高等師範学校教育速成科卒業後、一九三〇年渡伯。
一九三三年、サンパウロ市リベルダーデ区にコロニアでは最古となる「赤間裁縫学校」(赤間学院前身)を創設し、家事裁縫をはじめ日本語教育、行儀作法、情操教養など、日系婦人としての知性、道徳の向上のための指導にあたる。
現在、学校法人「赤間学院」は「赤間みちへ財団」のもとで運営され、中等部までの在校生は常時八百人以上。これまでの同校卒業生は約五千人におよび、日系人のみならずブラジル人子女学習者も多く、サンパウロ市内屈指の優秀校で知られる。
一九七四年、日本政府より勲五等瑞宝章を受章。一九八三年、サンパウロ州政府よりイピランガ章受章。九十六歳のいまもなお壮健で、著作活動などに余念がない。
上塚周平
上塚周平
一八七六年、熊本県生れ。東京大学法学部卒業後、移植民事業を志して皇国植民会社のブラジル代理人となり一九〇八年、笠戸丸移民とともに着伯。 サンパウロ市に本拠地を置いて活動に入ったところ、各耕地に入った移民は労働条件などを不満としてスト、脱耕が相次ぎ、皇国植民会社は倒産。いったん帰国後に再び渡伯し、鈴木貞次郎らとともに初期移民たちのため入植地を探し一九一八年、プロミッソン植民地を創設する。 その後、植民地入植者たちのため日本政府に低利融資の陳情を行うなど、生涯を清廉な生活の中で移民のために尽くし、ブラジル移民の父と慕われた。また瓢骨と号して俳句に親しみ、「夕ざれば樹かげに泣いて珈琲もぎ」などの秀句がある。 一九三五年死去。プロミッソン市長は特別に墓地を提供してその死を悼み、またサンパウロ市には「上塚橋」や上塚周平を顕彰する銅像などがみられる。
斉藤広志
斉藤広志
一九一九年、宮崎県生れ。一九三四年渡伯。 エメボイ実習生、パウリスタ新聞編集長などを経てサンパウロ大学政治社会学院で勉学し、のち同校助教授、教授に。この間、社会学博士として日本人移住者と植民地の実態を調査し、日系コロニアの実情を日本にも広く紹介した。 『ブラジルの日本人』など著作も多数あり、一九五七年に神戸大学助教授、六六年には米国フロリダ大学に客員教授で招かれている。ブラジル日本移民史料館初代館長、ブラジル日本文化協会常任理事、サンパウロ人文科学研究所理事、ブラジル宮崎県人会長などを歴任。一九八三年死去。同年、日本政府より勲三等旭日章を受章。
佐藤念腹
佐藤念腹
本名・佐藤謙二郎。一八九八年、新潟県生れ。高浜虚子に師事し、同門下の逸材として注目されたが一九二七年、渡伯し第二アリアンサ移住地入植を経てバウルー市に移転。 生涯、バウルー市に居を構えてブラジルにおける俳句の普及に多大な功績を残す。みずからも、開拓俳句などで虚子門下のホトトギス派の一流作家としての地位を築いた。戦前戦後の邦字紙の俳壇選者を務めながら句誌『木蔭』を主宰し、多数の弟子を育成した。 また、渡伯前の虚子のはなむけの句、「畑打って俳諧国を拓くべし」を使命として写生俳句の興隆に全力を尽くし、『ブラジル俳句集』、『念腹句集』など多数の著作がある。サンパウロ市イビラプエラ公園日本館内には、「雷や四方の樹海の子雷」の句碑がみられる。一九七九年死去。
下元健吉
下元健吉
一八九七年、高知県生れ。一九一四年渡伯。 サンパウロ市近郊コチアで一九二七年、中尾熊喜ら同志とコチア・バタタ生産組合を創設し初代理事長に就任。創立組合員は高知県出身者を中心に八十三人だった。 以後、三十年間にわたる専務理事職にあって「一人は万人のため、万人は一人のため」の協同組合主義を貫き、コチア産組を南米随一の組合にまで発展させた。この間、戦後の混乱期には認識運動派のリーダーの一人として活躍。いっぽう、二千五百人におよぶコチア青年移住者の導入や産業開発青年隊の受け入れ組織となるサンパウロ州農業拓殖協同組合中央会を設立するなど、移植民事業にも寄与した。 一九五七年死去。同年、日本政府より勲五等旭日章、また連邦政府より国家功労章を受章。
鈴木悌一
鈴木悌一
一九一一年、兵庫県生れ。神戸第一中学校中退後、一九二八年渡伯。サンパウロ大学法学部、同文理学部卒業。 終戦後の日本人資産凍結解除に、弁護士として力を尽くす。一九五八年には大規模なコロニア実態調査の委員長に就いて、日系社会の人口動態をはじめとする状況をつぶさに調べ分析し、極めて貴重な資料を内外に提供する。 またサンパウロ大学人文科学部東洋学科への日本文学講座の設置に尽力し、同大学に日本文化研究所が設けられた六九年、文学博士として初代所長に就任。同大学における日本文学研究に大きな功績を残す。 サンパウロ日本文化協会理事、日伯文化普及会(のち日伯文化連盟)理事、日系画家グループ聖美会会長などを務める。一九九六年死去。
鈴木貞次郎
鈴木貞次郎
一八七九年、山形県生れ。早稲田大学文学部卒業、正岡子規らと交わり、のち南樹と号す。 皇国植民の水野龍に勧められて一九〇六年、南米各国を巡訪後に着伯。のちの日本人計画移民の試験移民となってリベロン・プレット郊外の耕地に入り、体験を積む。一九〇八年、第一回日本人移民(笠戸丸移民)が到着すると、通訳を引き受けて移民の世話や耕地での問題解決などに奔走する。また一九一一年、ペドロ・トレード農務大臣の推薦を受けてアマゾン地方視察団に加わり、日本人の入植の可能性を調査する。 戦前は邦字紙で健筆をふるい、戦後も『ブラジル移民の草分け』、『埋もれ行く拓人の足跡』など多数の著作を残す移民先駆者。一九七〇年死去。
竹中正
竹中正
一九一七年、和歌山県生れ。一九二九年渡伯、アルバレス・ペンテァード大学経済学部卒業。 肥料・農薬販売の竹中商会社長を務めるかたわら、日系のスポーツ振興、とくに陸上競技選手の育成に励み、アテアビスタ会を創立し会長に就任。スポーツ大会開催などを通じてコロニアのスポーツ興隆、日本とのスポーツ交流に大きな役割を果たす。 また中沢源一郎の後を継いでサンパウロ日伯援護協会会長となり、コロニアの福祉厚生の向上を図るとともに日伯友好病院の建設に努力し、ブラジルの医療衛生分野の発展に多大な功績を残す。 援協会長のほかサンパウロ日本文化協会副会長、同評議員会長、日本文化普及会理事など日系社会の文化、福祉団体の要職を歴任。連邦政府よりリオ・ブランコ章、日本政府より勲三等瑞宝章を受章。一九九八年死去。
橘富士雄
橘富士雄
一九一一年、北海道生れ。逓信講習所、日本植民学校などを卒業後、一九三二年渡伯。 ブラジル拓殖組合銀行部(カーザ・バンカリア・ブラタク)に勤務し、同銀行部が発展解散し南米銀行となるとともに同行入社。融資部長、取締役などを経て同行社長に就任し、優れた中堅銀行に発展させる。 この間、ブラジル日本商工会議所会頭、ブラジル日本文化協会理事、日本語普及センター初代理事長、日伯友好病院経営審議会名誉会長、日伯文化連盟副会長などを務め、八〇年代以降の日系社会のリーダーとして文化、経済、福祉さらに日語教育指導など多方面に貢献する。 日本政府より勲三等旭日中綬章、連邦政府よりリオ・ブランコ章を受章。一九九六年死去。
田村幸重
田村幸重
一九一五年、サンパウロ市生れ。サンパウロ大学法学部、陸軍大学卒業。 戦後の混乱がまだ収まらぬ中、「一世には希望を二世には自信を与えたい」と弁護士職を辞してサンパウロ市議会議員に。さらにサンパウロ州議会議員を経て一九五四年、日系人として初めて連邦下院議員に当選する。 以後、通算十六年間の下院議員時代は軍政下にあって活動が制限されたが、外務委員、文教委員などを歴任し、駐日大使に推されるほどの活躍をみせた。軍政移行前の一九五八年には、ジュセリーノ大統領の意向を受けて初の日伯合弁企業、ウジミナス製鉄所の建設に尽力。この功績により、ミナス・ジェライス州より独立チラデンテス章を受章。また日本政府より勲三等瑞宝章を受章。サンパウロ市アクリマソン区で、アナ夫人とともに悠々自適の余生を送っている。
中尾熊喜
中尾熊喜
一九〇〇年、熊本県生れ。一九一四年渡伯。 サンパウロ市近郊のコチアに転耕し一九二七年、コチア・バタタ組合の創立委員の一人となり、専務理事として初代理事長下元健吉を補佐し組合の基礎固めと発展に尽力する。こののち中尾肥料店(ジャグァレー肥料前身)を開店。日系初の株式会社として注目される。 戦後は同社経営のかたわら、サンパウロ人文科学研究所を創設(一九五〇年)し、五五年創立のサンパウロ日本文化協会発足につとめ、さらに五八年、在伯熊本県人会を創立し初代会長となる。こののち文協会長、ブラジル日本都道府県人会連合会初代会長などコロニア主要団体の要職を歴任し、文化、親睦活動に大きく寄与した。 また初期移民たちの母国訪問の推進役となり、時には私財を投じて「夢の里帰り」の実現をはかったことは、その後の初期移民訪日団事業(日本政府招待)への引き金ともなり、高く評価されている。 日本政府より勲三等瑞宝章受賞。一九七五年死去。
中沢源一郎
中沢源一郎
一九〇七年、高知県生れ。東京大学文学部卒業後、当時盛んだった「新しい村」運動に影響され、農業を志して一九三三年渡伯。 入耕先のジュケリー(現マイリポラン市)で、ジュケリー農産組合専務理事に推されて就任。同産組はのちスール・ブラジル農協中央会となるが、百人足らずの組合員を六千人以上に発展させ、理事長に就いたのちも堅実な経営を続ける。 そのかたわら、サンパウロ日本文化協会の創立に際しては準備委員の一人として活躍。のち同文協会長となり、「ブラジル日本移民史料館」を完成させ、日本移民七十年祭実行委員長などを務める。いっぽう、サンパウロ日伯援護協会会長も務め、医療を中心とした移民援護活動に尽くす。 日本政府より勲三等旭日章、連邦政府より南十字星勲章、サンパウロ州政府より産業功労章、イピランガ章などを受賞。一九八四年死去。
細江静男
細江静男
一九〇一年、岐阜県生れ。慶応大学医学部卒業後、無医村で働く外務省留学医として一九三〇年渡伯。 最初に耕地造成二年目のバストス移住地に入り、医療活動を行う。のちサンパウロ医科大学に入学し、そのかたわら戦前のコロニアの保健医療機関「同仁会」で衛生技師として活動。また高岡専太郎医博らとともに日本病院建設に奔走する。さらに奥地巡回診療などを通じて肺結核患者の多発を知り、カンポス・サナトリオの開設に尽力する。 戦後は同仁会に代わる日本移民援護協会の設立に携わり、保健衛生担当専務理事に就いてコロニアの保健衛生の啓蒙と診療に大きく貢献した。また、日系青少年の心身の育成を目的としたボーイスカウト・カラムルー隊を組織し、その指導にも尽くした。『ブラジルの農村病』など著書も多数ある。 日本医師会より最高功労賞を受け、日本政府より勲三等瑞宝章受章。一九七五年死去。
蜂谷専一
蜂谷専一
一八九〇年、愛知県生れ。神戸パール・モア英学院卒業後、実兄がリオに設立した蜂谷商会に勤務するため一九一九年渡伯。 のち同商会サンパウロ支店責任者に就くとともに、サンパウロ日本人会初代会長、サンパウロ日本商業会議所初代会頭などを歴任し、日系社会のまとめ役を果たす。戦後は蜂谷輸出入商会の経営にあたる中、サンパウロ東京銀行頭取、ウジミナス製鉄所顧問、ブラジル日本商工会議所会頭などを歴任し、日伯経済交流の促進にも功績を残す。 またサンパウロ人文科学研究所所長、在伯愛知県人会会長職などを通じてコロニアにも人脈を広げ、日系の若い知識層や芸術家の保護育成に尽くした。日本政府より勲四等旭日章受章。一九八二年死去。
間部学
間部学
一九二四年、熊本県生れ。一九三四年渡伯。 リンス郊外で一家のコーヒー園経営に携わりながら絵画の習作に励み一九五〇年、サンパウロ作家協会展に初入選を果たす。全ブラジル作家が参加した五八年の「レイネル賞展」、翌五九年の第五回ビエンナール展での国内最高賞を獲得し、本格的に画壇に登場。 以後、ベニス・ビエンナーレ展での「フィアット賞」南米ビエンナーレ(アルゼンチン)での一位入賞など海外のコンクールでも数多く受賞。この間、日本をはじめ米国、フランスなどで個展を開き、衝撃的な原色群を用いた独特の抽象世界を現出させ、鑑賞者を圧倒する。 連邦政府よりリオ・ブランコ章受章。サンパウロ名誉市民。一九九七年死去。郷里の熊本県宇土郡不知火町には、大作を集めた「間部学記念館」がある。
宮坂國人
宮坂國人
一八八九年、長野県生れ。神戸高等商業学校(現神戸大)卒業後、東洋移民会社(のち海外興業KKに統合合併)勤務を経て海外移住組合連合会専務理事に就任。 一九三一年、同連合会のブラジル現地組織となるブラジル拓殖組合責任者に就くため着伯。同組合所属のアリアンサ、チエテ、バストス、トレス・バラス四移住地の経営に携わる。 三七年から四〇年にかけてブラ拓銀行、ブラ拓商事、ブラ拓鉱山、ブラ拓綿花、ブラ拓製糸、ブラ拓建設などを次々に創設するが、太平洋戦争の勃発で各企業は清算。ただしブラ拓銀行は改組し一九四〇年、加藤好之とともに日系初の銀行「南米銀行」として創立する。戦後は、非日系人の資本名義となっていた南銀の株を買い戻して日系人の銀行に成長させ、グループ企業数社の社長も兼ねて発展を図る。 いっぽう、戦後のコロニア社会の発展にも著しく寄与し、ブラジル日本文化協会会長、サンパウロ日本商業会議所会頭(戦前)、ブラジル日本語普及会会長など要職を歴任する。 連邦政府より南十字星章、日本政府より勲二等瑞宝章受章。一九七七年死去。
水野龍
水野龍
一八五九年、高知県生れ。慶応義塾大学卒業後、同県出身の後藤象二郎逓信相に認められて岡山県庁で勤務するが、のち殖産興業界に転身し日本で最初に南米移住を提唱する。 一九〇五年、ペルー経由で渡伯。杉村駐伯公使の協力を得て、サンパウロ州政府と三年間に三千人の日本人農業移民導入契約をまとめ、いったん帰国。一九〇八年、上塚周平を助手に初の計画移民七百八十一人を監督して笠戸丸で再渡伯。 このあと再び帰国し,ブラジル移民事業の一本化を図るため海外興業KKを創設。この間、曲折を経て事業面での浮沈を繰り返すが、日本人移民は一九二〇年までに約二万九千人を記録した。 一九二四年、家族とともに移住(途中一時帰国し戦後、再移住)。クリチーバ郊外で農業に従事しつつ、同州への移民導入にも奔走する。一九五一年死去。生涯を移民導入に尽くし、上塚とともにブラジル移民の父と呼ばれる。日本政府より勲六等旭日章受章。
山本喜誉司
山本喜誉司
一八九二年、東京都生れ。東京大学農学部卒業後、三菱系企業農場に入社し一時は中国で直営農場を経営。一九二六年渡伯。三菱系の東山農場長に就く。当時、猛威をふるっていたコーヒー病害虫の駆除に関する論文を発表し、農学博士となる。 戦後のコロニア混乱期には、啓蒙認識運動の先頭に立って沈静化に努力し、常にコロニアの融和と社会的向上に心をくだいた。また日本人資産凍結の解除運動の中心的存在として活躍するいっぽう、日系人のサンパウロ市制四百年祭協力会をまとめ、サンパウロ日本文化協会を創立して初代会長に就任。文化センタービル建設に尽力、日系人の知性を代表し各分野の指導、育成にあたった。 一九六三年死去。日本政府より勲三等旭日章受章。農業功労者を顕彰する「山本喜誉司賞」がある。
宮腰千葉太
宮腰千葉太
一八九二年、千葉県生れ。東京大学卒業後、外務省に入る。 在アルゼンチン大使館参事官を最後に、国策移民会社の海外興業KK社長・渥美育郎の要請を受けて同社入社。取締役サンパウロ支店長として一九三七年渡伯。戦時中は、外交官たちが本国に引き上げる中で現地にとどまり、移民の保護に努めた。 一九四二年には、救済会の前身となるサンパウロ市カトリック日本人救済会を組織し、渡辺マルガリーダたちと警察抑留者への支援をはじめ疾病者の入院斡旋、孤児・私生児の収容、さらに就職斡旋や人事相談など多岐にわたる救済活動にあたった。戦後、救済会の発足とともに役員に就き、コロニアの社会福祉の向上に尽くしている。 また戦後の混乱期にあっては、認識運動のリーダーの一人として指導にあたった。またこの時期は、日本戦災同胞救援会のまとめ役として、母国に救援物資を送り続けた。日本政府より勲三等瑞宝章受章。一九七二年死去。
渡辺トミ・マルガリーダ
渡辺トミ・マルガリーダ
一九〇〇年、鹿児島県生れ。一九一二年渡伯。 サンパウロ市の名医セレスティーノ・ブルー家に住み込みで働きながら勉強しカトリック信仰を身につける。また人格高潔で社会奉仕精神の強いブルー家の人々に少女期、大きな影響を受ける。 戦時中は宮腰千葉太らとともにサンパウロ市カトリック日本人救済会の一員として、投獄・強制収容される移民の救済や困窮者の世話にあたった。戦後も日本戦災同胞救援会のもとで、母国へ救援物資を送る運動に奔走する。 一九五三年、カトリック日本人救済会が改組され公認慈善団体「救済会」となるに伴い、トップの座に就いて福祉活動に全力を尽くし、老人ホーム「憩の園」の運営などに生涯を捧げた。サンパウロ聖母婦人会初代会長として、婦人活動にも力を注ぐ。 日本政府より藍綬褒章、勲四等宝冠章を受章。吉川英治文化賞受賞。郷里の鹿児島県枕崎市名誉市民。同市に「渡辺マルガリーダ基金」がある。一九九六年死去。
選考方法について
「コロニアの二十人」の選考基準は、一世、二世を問わず指導的立場からコロニア各界をリードし、その発展に著しく貢献し、また日系人のこの国における社会的地位向上に多大に寄与した、故人を含むブラジル在住日系人とした。
選考にあたっては、最初に五十人の候補を選んでこれを二次選考で三十四人に絞り、その上で編集局員五人が配布された候補リストをもとに選出する方法をとった。「本紙が選んだ」ことから、新聞発行人や編集者などはあらかじめ割愛した。事績などの紹介内容は、主に『日本・ブラジル交流人名事典』(パウリスタ新聞社刊)による(記載は五十音順)=敬称略=。