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越境する日本文化 カラオケ(6)=カラオケ・スナック〝登場〟=「どんぐり」元駐在員夫人がママ

2月25日(火)

 プロフェソール・セバスチョン・ソアレス・デ・フェリア街。セントロとパウリスタを結ぶブリガデイロ・ルイス・アントニオ通りに交わる。人通りは少なく、今は、寂れた感じがする。
 交差点近くの雑居ビルの地階に、カラオケスナック第一号店「どんぐり」が七七年十一月、オープンした。
 どんぐりの背比べ。上手も下手も無く、カラオケを楽しみたいと願って、店名は命名された。
 ママは元キャリアウーマンの石坂信江さん。駐在員の妻として、来伯、夫が退職してカラオケスナックを開けることになり、思わぬ形で水商売に飛びこんだ。
 「子供の世話をしながら帰宅の遅い夫を待つ。当時、駐在員の妻はたいてい、友人も作れず、孤独な生活を送っていた。夫婦同伴で気楽に立ち寄れる空間をつくりたかった」。
 どんぐりの誕生秘話を、聞いた。

 「ブラジルに行くのは嫌。一人で行きなさい」。夫の赴任が決まったおり、口をついて出た。興奮はなかなか、収まらなかった。当時、東芝系の企業で役員をしており、仕事を投げ出して夫に同伴するなんて、到底、考えられなかったのだ。
 しかし、夫の強い希望に押されて、心が動いた。半年後の七一年八月、家財道具をコンテナに積め、海を渡った。
 海外での慣れない暮らし。アパートで一人、夫の帰宅を待つ日が続いた。「一日にドアを二回しか空けない日もあった」。一年半で帰国するなら必要無いと、電話やテレビはつけなかった。隣近所と顔を合わすこともなく、友人が出来るはずもなかった。
 キャリアウーマンだった頃は、男性に対しても卑屈にならず度胸の良さで仕事をこなし、交渉相手を唸らせた。その生活がブラジルにきて、百八十度、変わった。ついに、ノイローゼ状態に陥った。
 そんなおり、会社の都合で、駐在期間が延長された。「一人で先に帰る」と、切に訴えた。夫は妻の願いを意に介さず、閉じこもりの生活を脱することは出来なかった。

 夫が七六年、日本に出張、帰るや、カラオケをやると、言い出した。「何を言っているの。水商売なんてやったことないのに」。思わず、耳を疑った。が、喧嘩の末、またも、折れた。
 当時、日本ではカラオケブーム。ブラジルにも日本の流行が伝わっていた。夫は最前線を目で見てきたのだ。
 親戚が八トラックカラオケシステムを購入して、ブラジルに持ち込み、夫と二人で、組み立てた。八トラックはテープカラオケで、一本に八曲ぐらい収録されていた。五百本ほど、手に入れた。
 技術屋の夫がカラオケ機器を担当、自身がママに。ポルトガル語での対応のため、友人の米田利耕さんを引き入れた。 
 水商売の「み」の字も知らなかった。ウエートレスのアルバイトでさえ経験したことはない。接客がうまくいくのか、七七年十一月はじめの開店を前に、緊張で胸が高鳴った。
 「人に頭を下げるのは嫌いでしたから」と、今はあっけらかんという。
    (古杉征己記者)

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