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越境する日本文化 カラオケ(2)=郷愁がマイクを握らせる=演歌3分間で戻る青春

2月19日(水)

 がっしりとした体格でおっとりした性格。泰然自若とした様子から、いつしか〃岩手の殿様〃と、あだ名が付いた。
 歌は幼い頃から好きだった。十代の頃、作曲家の高木東六に師事、シャンソンを学んだ。 
 同氏の作曲生活三十周年記念コンサートでは、淡谷のり子、松島詩子といった錚々たる歌手を前に、五十人のバックコーラスを率いソロで、「みみずの歌」(高木東六作曲)を披露した。
 渡伯は一九六〇年。右も左も分からない海外で、生き抜くのは大変だった。「娯楽を求める経済状況に無かった」。訪日する機会はもちろん無く、日本文化とは離れた。
 寂しさを紛らわすため、友人の小野敏郎さんが経営していたボアッテ「ブラック・ジャック」で、楽団をバックに流行歌を歌ったこともあった。敏郎さんはボサノヴァ歌手、小野リサさんの父親でもある。
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 大阪万博が七〇年に開かれ、ブラジルから見学に向かう人を案内するため、日本に出張した。そのおり、友人の誘いで新宿のカラオケ喫茶に入り、テープによる演奏で軍歌を歌うことに。
 「伴奏が始まり、歌い出したのはよいが、テンポやリズムが合わない」。カラオケとの出会いは、苦い思い出になった。
 その後、ブラジルでもカラオケが普及、その魅力にとりつかれた。昔の趣味は消え、演歌から入った。
 この頃は、ブラジル三菱商事に勤務しており、バリバリの商社マン。サラリーマンとして、仕事、役職ともに充実した時代だ。日本からの来客も多く、平日夜はカラオケ、週末はゴルフに出掛けた。仕事も遊びも無我夢中だった。
 経済的なゆとりが生まれる影で、犠牲になったのが家庭。「お前の嫁は、カラオケとゴルフ未亡人だな」と、同僚によく冷やかされた。妻、孝子さん(京都府出身、六三)も、「家族を含めた別の娯楽を選ぶべき」と、不平、不満をぶつけた。
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 健康のためもあるが、マイクに向かうのは、やはり郷愁から。故郷、青春時代……。三分間の演歌を歌えば、どんな大河ドラマを見たり長編小説を読むよりも、強く、思い出を感じられる。
 トヨタカップ実行委員会に携わっていることなどから、一年に数回、訪日する。そのたびに、もう二度と行くもんかと、ブラジルに戻ってくる。「箱みたいな中によく生きていられるな」。 
 だが、半年と持たない。用事をつくって、また、日本に向かってしまう。中途半端な気持ちがますます、カラオケに駆り立てる。
 古希を迎え、片道、二十四時間の旅に耐えられなくなった。訪日はもう出来ないと覚悟。昨年、友人を訪ね歩き、〃通夜〃をあげてもらった。祖国に永遠の別れを告げた。
 「宴は、終わった」。
    (古杉征己記者)

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