ホーム | 連載 | 2003年 | カルナヴァルと日系人 | カルナヴァルと日系人(5)=バロッカ・ゾーナ・スル=日本人にもできる=『移民75周年』で仲間入り

カルナヴァルと日系人(5)=バロッカ・ゾーナ・スル=日本人にもできる=『移民75周年』で仲間入り

2月28日(金)

★観客総立ちで大合唱★
 ARIGATO! Hora nao tem de que. Esse enredo a Barroca ofereci a voce(アリガトウ。どういたしまして。バロッカがこの曲をあなたにプレゼントします)
 バロッカ・ゾーナ・スル――。ヴァイ・ヴァイの創立者にして元会長、ペ・ラシャードが仲間の一部を引き連れて七四年に創立したこのエスコーラが、八三年に「日本移民七十五周年または日出ずる国」というテーマ曲を作り、有名エスコーラとしては初めて本格的に日本移民をサンバにした。そのサビ(繰り返し部分)が前掲の歌詞だ。
 「日本人が出たらサンバがダメになる。日本人はリズムができない。最初はそんなことをあっちこっちで言われた。でも、僕らは見せたんだ。日本人だってサンバが踊れるってことを。本番の会場はすごかったよ。観客全員が立ち上がって、みんながあの繰り返し部分を暗記して歌ってくれた。すっごい、うれしかったよ。ほんと」
★微妙な文化のバランス★
 通称〃キッコ〃(赤嶺清幸・四五・沖縄県出身)は懐かしそうに当時を語る。七歳で家族と共に移住したキッコは、サンパウロ市北部で少年時代をすごした。「カエターノ、ミルトン、シッコとかのMPBをギターを弾きながら歌って練習した。ブラジル人と同じようにポルトガル語が発音できるようにと思って、一生懸命やったよ。周りの子どもは演歌を歌っていたけどね」。
 近くにあったエスコーラ、ペルーシやモシダーデ・アレグレにもよく通った。「十五歳の時、黒人の前で踊ってみせて、誉められた。これで自分もサンバ・ノ・ペ(サンバ独特のステップ)ができるようになったと思って自信がついた」。いくらクアドラ(練習場)に通っても、パレードに出ようとは思わなかった。サンバを踊ることと、黒人コミュニティに入ることは別物だった。
 二十歳ぐらいまではブラジル音楽一筋だった。でも両親から「日本人なのにサンバ、サンバって。すこしは日本の歌も歌っておくれ」と嘆願され、流行歌や沖縄民謡の練習を始めた。カラオケ大会にも次々出場して、瞬く間に三十個ほどのトロフィを集めた。沖縄民謡コンクールにも出場し、新人賞もとった。彼なりに、日本とブラジルのバランスをとった。
 ★地面が揺れる★
 二十五歳の青春真っ盛りの八二年、日伯毎日新聞のポ語編集長をしていた木村ウィリアンから声がかかった。「一緒に日本移民のカルナヴァルをやろうよ」。翌八三年は移民七十五周年。それを記念して当時グルッポ・エスペシャルのすぐ下、グルッポ・プリメイロにいたバロッカが、日系人の協力者を集めていた。
 以前とは違って「日本移民がテーマ」「仲間と一緒」だと不思議とやる気がわいてきた。ブラジル社会から招待されて、自分たちが舞台の主役になれる貴重な機会だと感じた。何かを自分の中で乗り越えた。
 木村、小川フェリシア・楠野タカオ夫妻、そしてキッコらが中心になって駈けずりまわり、人集めをはじめた。「あの頃は二世、三世でもカルナヴァルが怖かったみたい。あんまり良いイメージがなかったから…」。最初二十人ほどしか集まらなかった。
 リベルダーデ広場からエステダンテ街を三十メートルほどくだった右手に教会につながる袋小路がある。そこにポロン(半地下倉庫)を借りて、みんなで集まった。「仕事終わってから集まって、ファンタジア(衣装)を作るんだけど、いろいろ話しながら、朝までね。それが楽しくて楽しくて」。
 時が満ちた――。当日までに日系人のアーラ(連、隊)は、二、三世を中心に三百人にも膨れ上がっていた。真夜中のチラデンテス大通りは、数万人の大観衆でごった返していた。「アベニーダ(大通り)でバテリア(打楽器隊)が叩きはじめた時の凄さ! 地面が揺れるみたい。言葉にできないよね、あの瞬間の興奮は」。
 結果は六位だったが、参加者はみな満足した。これ以来、キッコは日系人アーラの責任者として八九年までカルナヴァルに関わり続ける。「日本人だけで固まるんじゃなくて、みんなで一緒に楽しむのがカルナヴァル。それがブラジル!」。
 ★デカセギへ★
 経済的問題から、キッコは八九年にデカセギに行き、責任者を失ったアーラは自然消滅してしまった。逆に、デカセギ先の群馬県大泉町で九一年からサンバ・パレードが始まった。キッコは自慢のサンバ・ノ・ペを披露して盛り上げ、九四年にはエンレードのプッシャドール(歌手)までやった。
 そして二〇〇〇年に帰国。「帰ってみたら、今の若い人たちは自然にエスコーラに通う時代になっていた。〃日本人のアーラ〃とかじゃなくて、ブラジル人に混じってやっている。もちろん、日本の文化は保存しなきゃいけないけど、カルナヴァルはそれでいいんだと思う。僕も生まれ変わって、もっとバリバリに踊ってみせたいよ」。
 日本人にもサンバはできるんだ、と頑張ったのがキッコの時代だった。今は、自然に身体が動き出す世代が台頭しつつある。「バロッカの頃が一番楽しかったよ。来年あたり、また顔出してみようかな」。そろそろ〃サンバの虫〃が騒ぎはじめているようだ。
 ■同胞としての認知■
 八〇年代のカルナヴァルは、現在より黒人的イメージが強かった時代であり「勤勉な東洋人」である日本人とは、ある意味、最もかけ離れた存在だった。それが八三年に交わった。黒人文化と日本文化の融合――、それは世界でも稀な出来事に違いない。
 当時のバロッカは、現在のようにグルッポ・エスペシャルではなかった。でも、一般大衆の中の伝統を重視する人々が、日系人の存在を〃仲間〃もしくは〃同胞〃として認めはじめた証しだった。そして二、三世がその期待に応えた。
    (深沢正雪記者)

■カルナヴァルと日系人(1)=「ボヘミアンな父でした」=日系初のサンビスタは戦前移民

■カルナヴァルと日系人(2)=見ると出るでは大違い=「日本人にサンバが分かるの?」

■カルナヴァルと日系人(3)=日系初のカルナヴァレスコ=ヴァイ・ヴァイで2度優勝

■カルナヴァルと日系人(4)=サンバ魂は三世から!?=両親大反対だった大衆音楽研究

■カルナヴァルと日系人(5)=バロッカ・ゾーナ・スル=日本人にもできる=『移民75周年』で仲間入り

■カルナヴァルと日系人(6)=フロール・ダ・ペーニャ=囃子響かせ笠戸丸行進=「リオで大江山の鬼行列」と構想

■カルナヴァルと日系人(終)=ヴァイ・ヴァイ=移民90年忍者と芸者とラジオ体操=日本民族文化からブラジル民俗へ

関連記事

■ガヴィオンエス2連覇飾る=リオはベイジャ=フロール=カーニバル・デスフィーレ終る

■カルナヴァル 今年も〝日本人〟活躍

■リオ カーニバル中 陸軍出動=治安維持で後詰め=軍警は組織の拠点警戒=PT、犯罪組織に挑戦か

■灼熱のカーニバル 本番!

■マラニョン州のカーニバル=民族文化色濃く楽しく

■死傷者増すカーニバル=「インデペンデンテ」は追放

■血ぬられたサンパウロ市カーニバル=サッカー応援団衝突し3人死亡=検察局「応援団の参加は禁止」

image_print