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ペルーからの報告=フジモリ 待望論はあるか(7)=フジモリ政権の遺産=捨てられた街パチャクテ

5月1日(木)

 「フジモリはいつ帰ってくるの?」「日本に帰って伝えてくれよ、俺たちは待ってるって」
 道端で話している人々などに話しかけると、笑顔で言葉を投げかけてくる。
 筵で作られた家の群れはなだらかな丘陵を描く砂漠のはるか向こうまで続き、かすんで見える。まるで核戦争後に生き残った人類が不毛な地にしがみついているようにも見えるー。 
 パチャクテ。二〇〇二年二月にパチャクテ地区パイロット・プロジェクトとして近隣の貧困地域の住人に土地を無償提供する、というフジモリが行った誘致政策の産物である。
 当初は六千家族を対象に行われたが、現在では二万家族に膨れ上がり巨大なスラムと化している。
 十一月にフジモリが日本に亡命して以来、この土地は忘れられた存在になっているー。
 支持者集会の翌日、事務所前で拾ったタクシーは、港町カジャオを越え、砂漠地帯を突き抜け、一時間半ほど北上した。海岸沿いにある魚粉工場から流れる独特の匂いが鼻をつく。
 「日本人をわがパチャクテに招待できるなんて、光栄だよ」と同行してくれたゴンザレス氏は興奮した面持ちで「ほら、あれを見ろ」と前方を指さした。
 『スサーナ・ヒグチ』『ケンジ・フジモリ』の標識。フジモリ政権時代にパチャクテと同様に作られた町やプエブロ・ホベン(不法占拠居住地域が後に正式に認められた町)に冠されたもので、学校などもフジモリ・ファミリーの名前がついているものも多い。
 舗装された道路からひどい悪路をひた走ると、〝捨てられた町〟パチャクテが見えてくる。
 我々を出迎えてくれたフリオと自己紹介した老人は「道や公園、図書館なども建設される予定だったんだ。でも今じゃこの有り様だ」と嘆く。
 フリオ老人がふと視線をやった方向に目を向けると給水車が走っていた。ほとんどの家(と呼べるならば、だが)電気だけはある、という状態だ。
 トレド大統領はテレビクルーと共に一回視察に来て「この地に大学を建設する」とコメントした後、礎石を置いた、という。
 「しかし、現政権のやったことといえば、『プロジェクト名を変えたこと』『フジモリの支援ポスターをはがすこと』『フジモリが建てた学校の校門の色を塗り替えたこと』『半年ほど前フジモリ支持者を四人逮捕したこと』それだけさ」
 現政権の復讐だー。「パチャクテはフジモリが行った誘致政策の代表的地域だったがために、捨て置かれている」と住民たちは憤り、そして嘆くー。
 支持者たちの集会の帰り、ある家の前で所在なげに立っていた髭面の男性に話しかけてみた。
 「調子? 良くないね。家族は五人だよ。カジャオの工場に仕事に行ってる。仕事があるだけましさ。フジモリ? さあ・・・それより見てくれよ。ここに住んで一年半でやっとこさ、家をコンクリートにしたんだ」 
パチャクテに灯がともり始めた頃、待たせてあったタクシーでリマに向かった。始終無言であった運転手に、フジモリ支持者のことを尋ねてみた。
 「あいつらは自分たちで何をやろうともせず、政府に頼ろうとしているだけじゃないか」
 長い間待たされて気分が悪かったのも手伝ったのか、運転手は堰を切ったようにフジモリやその支持者たちの批判を始めた。
それはリマに着くまで途切れることがなかったー。 (堀江剛史記者)

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