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ペルーからの報告=フジモリ 待望論はあるか(5)=当選後も揺れ動く心情=祝電を喜べない地元日系人

4月29日(火)

 当 当選してしまった以上、日系人のイメージを守るため、応援するしかないー。
 日系人協会として祝勝会を開くなどの動きはなかったが、協会はフジモリの要請で非公式に数百人もの日系人リストを作成するなどの協力をしている。
 しかし、協会がフジモリ支援の立場をとるに至るまでにも、日系社会の揺れ動きを見ることができる。
 サンパウロ新聞社の笹井宏次郎元デスクは、日系人協会が約二百人の日本記者団に対して行った、夕食懇談会に出席している。
 会は決戦投票三日前の六月七日に開かれた。出席したのは顧問会、協会役員、日系各団体の代表者で、当初フジモリを支持していたのは一人のみで、残り全員が反対の立場を取っていた。
 しかし、記者たちの質問に答えていくなかで、最終的には全員が支持派に変わってしまった様子を笹井氏は「日系人の揺れ動く心情がありありと見えた」と記事の中で報告している。 笹井氏は大統領決戦投票時にペルー日系社会を取材し、「その時何が起ったか」と題して三回の連載記事を書いている。
 ペルー日本人史料館館長を務めていた飯田一夫氏のもとに、ドミニカ日本人会から「祈当選」、「祝当選」と書かれた手紙が送られた。
 その際、「遠い国でペルー日系人の気持ちが伝わらないのだろう」と語った同氏。他国日系コロニアからの気持ちを素直に受け取ることができず、複雑な思いにとらわれているその様子を笹井元デスクは「少々もてあましているようだった」と書いている。
 当時の日系社会の微妙な状況を伝えるエピソードである。
 フジモリ自身は日系社会と交流はなかったものの、あるインタビューの中で語った「ペルーに必要な勤勉さや誠実さを多くもっている」日系人の政治参加を呼びかけた。
 事実、多くの日系人専門家がフジモリ政権を支えた。九一年に厚生大臣として、コレラの撲滅に尽力した山本ビクトル氏もその一人だ。 
 山本氏は日秘診療所の院長を務めていたが、「日系人は自分の技術を生かした政治協力をすべき」という持論のもと、フジモリに政権に参加し、「フジモリは非常に優秀な政治家だった」と当時を振り返る。
 まだその政治手腕が未知数だった当初はフジモリによる政治参加の要請を辞退した日系人も多いが、スサーナ・ヒグチ元夫人の行った奉仕活動などの活動で、政権を支える日系人も多く見られた。
 しかし、フジモリ政権の足場が固まり、評価を得るようになって多少薄らいだ不安や恐怖は、約十年後に違う形で日系社会を再び襲うことになる。
  (堀江剛史記者)

■ペルーからの報告=フジモリ 待望論はあるか(1)=血と地の宿命の中で=懊悩する日系社会

■ペルーからの報告=フジモリ 待望論はあるか(2)=「フジモリ時代が懐かしい」=意外に多い支持派庶民

■ペルーからの報告=フジモリ 待望論はあるか(3)=「目立たぬように―」=1940年暴動 覚めやらぬ恐怖

■ペルーからの報告=フジモリ 待望論はあるか(4)=怖れとまどう日系社会=大統領当選の不安な前夜

■ペルーからの報告=フジモリ 待望論はあるか(5)=当選後も揺れ動く心情=祝電を喜べない地元日系人

■ペルーからの報告=フジモリ 待望論はあるか(6)=「フジモリイズムは永遠に」=選挙支援事務所 今年二月に開設

■ペルーからの報告=フジモリ 待望論はあるか(7)=フジモリ政権の遺産=捨てられた街パチャクテ

■ペルーからの報告=フジモリ 待望論はあるか(8)=亡命後 再燃する日系差別=「帰ってくるな」と語る2世

■ペルーからの報告=フジモリ 待望論はあるか(9)=フジモリが分らない―=戸惑いながら弁護する声も

■ペルーからの報告=フジモリ 待望論はあるか(終)=不可能に近い復帰だが=なんでも起こり得る国

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