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半世紀のコチア青年=リオ、ミナス州に親善交流の旅=連載(2)=苦労話聞き合える仲=胸のつかえ消え気力蘇る

7月9日(土)

 六月三十日の深夜、サンパウロ市内のリベルダーデ広場を発った貸切りバスの中は、二十九日と三十日にNHKで放映された日本の少子化をテーマとする、視聴者、政治家、芸能人などの討論番組が話題となった。祖国・日本を離れ、苦労を重ねながらも、民族の血を絶やさないために、子供を作り育ててきた者には「産まない自由」を主張した一部の番組参加者の意見に忸怩たる思いを感じたようだ。
 また、働く意欲も意識もないニート族と呼ばれる若者が数十万人の単位で存在している祖国の現実にも、言葉や文化や風俗の異なる大地で、必死に働いて今の生活を築いてきた者には、耐え難い姿として映っているようだ。
 祖国における繁栄の中の陰を案じる仲間たちで構成されているコチア青年連絡協議会(高橋一水会長)が主催する旅行は、単なる観光や物見遊山ではない。仲間たちが各地で活躍している現場を見て見聞を広め、互いの苦労と努力を称え合う強い側面を有している。
 同船者でありながら、サントス港に着いてから一度も会っていない仲間同士もおり、同じ州や地域にいながら、普段は会う機会に恵まれない者同士もいる。親善交流団を迎えることは、受ける側にとっても仲間意識を再確認する貴重な機会であることが今回も立証された。
 誰にも話すことができなかったような苦労の裏話を聞いてもらうことができるのも仲間たる所以である。それによって、長い間の胸のつかえが消え、再び気力が甦る機会でもある。
 七月二日の早朝、リオデジャネイロ市の入口で交流団を迎えたコチア青年リオ州支部長の大塚政義(群馬県、一次/九回)もその一人だ。リオ州に住んで四十八年だ。〃波乱万丈〃の人生だった、と述懐する。わずか数年前にも、精魂込めて育てた収穫間近のマンジオカごと百五十ヘクタールの土地をある公的機関に没収された。
 正式に登記し、永年耕して慣れ親しんできた土地だった。連邦警察に訴えたが、相手もまた公的機関だったため訴訟は徒労に終わった。その土地は、今は土地無し農民の手に渡っているようだ。必死に生きてきた中で偶発的に発生したこのような暗い出来事を淡々とした心境で話すことができたのも仲間同士だからだ。
 幸いに、三人の子供に恵まれ、孫もいる。「今は孫と遊ぶ毎日ですよ」と冗談交じりで言う人生だ。
 大塚支部長の案内で、一行はリオ州道RJ135号を北々東に走り、リオデジャネイロから百三十キロ、海抜八百五十メートルにある最初の交流地、ノーバ・フリブルゴ(Nova Friburgo)に向かった。
 この町での交流会は、松岡利治(埼玉県、一次十回)の司会で行われ、村田勇(埼玉県、一/一)、熱海昭造(北海道、一/三)、有田博昭(愛媛県、一/八)、大塚政義、津久井清(群馬県、一/九)らと家族が出席した。
 リオ州在住コチア青年名簿には三十二名が載っているが、死亡五名、行方不明二名、とある。他に十名ほどが連絡不能のようだ。これが現実なのかも知れない。
 交流会の会場は、町で一軒だけという日本食堂だった。数年前に藤巻恒(二世)が始め、食堂名を『恒』(Tunney)とした。父親の修允は東京農工大を卒業して一九五六年に移住した。コチア青年の村田勇は、藤巻修允とNIBRAという農機具や建築機械の販売と修理を行う会社を共同経営して三十七年になる。
 松岡利治の娘・パトリシアは藤巻家の次男に嫁いでいる。まだ若年ながら、ノーバ・フリブルゴ日伯文化体育協会の会長として活躍している。世代交代が堅実に進んでいるほほえましい一面を見た。つづく(敬称略)

■半世紀のコチア青年=リオ、ミナス州に親善交流の旅=連載(1)=9月18日記念式典=「多くの仲間に参加してもらおう」

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