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拘置所収監者の想い聞く=「白いご飯が食べたい」=戦後移民=少女買春・売春斡旋容疑で50年の禁固刑?!=塀の中で野菜作り

2005年10月25日(火)

 どんな思いで、塀の中で毎日を過ごしているのか──。刑務所、拘置所、社会復帰センターなど「刑務所施設」(Unidades Prisonais)のカテゴリーに含まれるものは、サンパウロ州内に百三十八カ所あり、州刑務庁によれば、日本国籍者は二人収監されている。うち一人が戦後移住者で、バルエリー市の食料品店経営者(56、熊本県出身)だ。少女買春・売春斡旋の容疑で昨年十月に逮捕された。五十年の禁固刑を言い渡されたが、無実を主張し、その判決と不服として現在も裁判で争っている。十九日午後、オザスコ第一拘置所を訪ねた。(古杉征己記者)
 分厚い鉄の扉で前後を挟まれた、薄暗い受け付けで待たされた。人の出入りが激しく、落ち着かない雰囲気がただよっている。施設に入る時に厳しいチェックを受けた。重く、そして長い時間が流れた。
 しばらくすると、上下黄色の囚人服に身を包み、両手に手錠をかけられた日本人男性が、職員に連れられて姿を現した。身長百六十センチあるかないかの小柄な男性だ。両目が赤く腫れているようにもみえた。
 「小さい頃に日本から来たので、日本語はあまりしゃべれませんが……」とぽつり。その後、管理棟の一室に場所を移し、三人の職員が見守る中で取材が始まった。
 施設の収容能力は七百六十八人。その二倍近い千四百二十四人が収容されている。彼も一室八人で寝起きしており、息苦しく感じないと言ったら、やはりうそになるかもしれない。
 「私、ポルトガル語の会話に問題はないけど、どちらかを選ぶとしたら、やっぱり日本語が好きなんです」。
 二世の妻(50)と息子(25)、娘(22)が毎週末に交代で面会に訪れ、日本食を差し入れしてくれる。「日本人だから毎日ブラジル食は辛く、白いご飯が食べたい。煮しめが大好きなんです」。
■セアザで葉野菜販売■
 一九五七年、九歳の時、家族親戚六人で移住。ガルサ近くのコーヒー園に入った。過酷な労働から、まもなく夜逃げ。サンミゲル・パウリスタで、土地を借りて野菜作りを始めた。
 「日本では小学校二年生までいった。こちらでも二年生まで学校に通ったけど、両方とも中途半端で終ってしまった」。そう、小さな声で伏目がちに話し、どちらの国でもきちんとした教育が受けられなかった人生を振り返った。
 一家の生活が安定するのは六〇年代の半ば。アルジャーに移ってからで、幼いながら家計を助けるために両親を手伝ったという。兄弟が成長した後に、野菜の販売企業に就職。二十七年間、セアザで葉野菜を売っていた。その間に結婚して家庭を築いた。
 「セアザにいる時は、寝る暇も惜しんで働いた。妻は食料品店(quitanda)を持っており、今は息子がやってくれている」。
■両親はまだ知らない■
 逮捕されたのは、〇四年十月二十一日。被害者の通報がきっかけだった。その日は、結婚二十五周年の記念日だった。
 八十歳前後の両親はまだ健在で、サンパウロ市近郊に住んでいる。拘置所に入ったことは、告げていない。「二カ月に一回は、顔を見せにいっていたのに、それがある日、ピタリと止まった。弟と暮しているけど、心配しているでしょうね」と声を詰まらせる。
 拘置所に入って、野菜作りを始めた。遊休地があり、日本人の特性を活かしたいと考えて志願したのだ。「昔から百姓だし、働くことで心身ともに落ち着くことができますから」。三日労働すれば、一日刑期が免除されるという恩典もつく。
 菜園にはレタスやサウソンなど十数種類の野菜が植えられている。日中はエンシャーダを引き、作業の合間に折り紙をつくるのが毎日の日課だ。収穫されたものは、収監者や職員に配っているという。
 技術監督課のアマウリ・トマスさんは「労働意欲を沸かせさせることが重要なことなんです。その意味で彼は模範的な人間ですよ」と語った。
 禁固五十年といえば、終身刑も同然。判決を不服とし、自分を信じてくれている息子の励ましの言葉を心の支えに、今後も裁判を続けていくつもりだ。
 「お父さん、ここを出たら田舎に土地を買って一緒に野菜をつくろう」。

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