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船がつないだ移民の集い=ぶえのすあいれす丸同船者会=23人が思い出話に花咲かせ

2006年8月19日付け

 歴代の「ぶえのすあいれす丸」同船者が集う――。戦前、一九四一年まで幾度となく日伯の海をわたった移民船、ぶえのすあいれす丸。多くの日本移民が新天地に渡り、また日本へと向かったこの船の同船者会が、去る十二日、聖市で開かれた。処女航海から、戦前最後の日本移民を乗せた四一年の航海まで、同船ゆかりの人たち二十三人が集い、思い出話に花を咲かせた。
 ぶえのす丸同船者が集った聖市内のレストラン。この日は、リオやパラナなど遠方からの出席者もあった。物故者に黙祷を捧げた後、集まった二十三人が一人一人、自己紹介。
 出席者の多くは渡伯当時、子供だった。サントスで別れ、コーヒー園などに配耕された移住者はそれぞれに苦労を重ね、そして六、七十年の時が過ぎた。今では誰もが七十、八十歳代。それでもはっきりと渡航の思い出を語る。
 渡伯年月日や船中の思い出。ペンキのにおいがきつく船酔いしたこと、太平洋で見たクジラ、初めて黒人を見た驚き、訛りのあった日本語教師、赤道祭、船内運動会、子供が海に落ちたが助かったこと…。
 自己紹介の後は昼食を囲み、それぞれの思い出と近況を交わしていた。
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 戦前最後の日本移民を乗せた船として知られる、ぶえのすあいれす丸。出航当時は、当時のブラジル大統領ゼツリオ・バルガスが再渡航者以外の渡伯を認めない方針を出していたため、許可が出るまで約一カ月、神戸に足止めされたという。既に日支事変が始まっていた。ブラジル移民四百十七人をはじめとする約五百人を乗せた船は一九四一年六月二十二日に神戸を出航、名古屋、横浜を経て太平洋を渡った。
 ところが、普通であればパナマ運河を通るのが、この時は、緊張した日米関係の影響から通過の許可が下りず、十日間の足止め。
 パラナ州ジャタイジーニョから訪れた佐藤博さん(78)は当時十三歳だった。日本へ戻るか、それとも満州に向かう選択肢もあったと振り返る。この案に家長が反対し、最終的に、それまで移民船が通ったことのない南米大陸南端のマゼラン海峡を通ることに決まったという。
 狭いところでは幅四キロ。天候も荒く、多くの船が座礁した同海峡。しかも、船が通った七月は南半球では真冬。チリのバルパライゾで現地船員を三人雇って海峡を渡り、八月十二日、サントスに到着した。その三カ月後に日米が開戦、戦前の日本移民は幕を閉じる。
 「家族七人でブラジルに来て、今は俺だけが残った」と佐藤さん。「日本にいたら(戦争で)死んでいたかも知れない。親父に先見の明があったのかな」。
 五十日余の航海。今年で六十五年になる。
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 最初の同船会が開かれたのは二年前のことだ。世話人の一人で、四一年の船で渡伯した森広雅夫さん(75)は「みなが元気なうちにと思って」ときっかけを語る。渡伯十年を記念して計画されたこともあったが、その時は実現しなかったという。
 会場では森広さんの兄、秀夫さん(76)が、「ぶえのすあいれす丸」が描かれた写真を出席者に配った。渡伯の年は違っても、同じ船で海を渡った者同士。不思議な一体感に包まれていた。
 今回はじめて参加した赤木政敏さん(75)は三二年の船。当時は一歳だったが、「同行者がいるかと思って」。この日出席した三嶋整さんと七十四年ぶりに再会した。
 この日の最年長者は、九十三歳の吉田美己さん。三一年に渡伯、自己紹介では、夜十時には消灯だったという当時のサンパウロの様子を振り返っていた。「同じ船じゃあないけど、名前が同じ。なつかしいところがありますよ」。
 最後に、出席者一同で「渡伯同胞送別の歌」を合唱。今でも覚えている人あり、忘れてしまった人、歌詞を見ながら歌う人など様々。それぞれが、かつて耳にし、歌ったであろう曲を、数十年後にともに歌う姿が印象的だった。
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 サントスに到着したぶえのす丸は開戦前夜の海を渡り日本へ戻った。当時の同盟国だったドイツ潜水艦による護衛つきだった。
 この船で日本へ行ったのが、同船会に参加した高倉尚子さん(二世)。父親の富岡漸さんは海興職員で、戦前、リオ・グランデ・ド・スルの亜国国境にあったサンタ・ローザ植民地の創設に携わった人だ。高倉さん自身も幼少の三年間を同地で暮らした。国境付近の外国人土地所有の禁止とともに、植民地は消滅。日本へ向かった高倉さんが再びブラジルへ戻ったのは、十六年後の五七年のことだった。
 「父はブラジルに骨をうずめたいと願っていました」と話す高倉さん。戦後、移民監督としてブラジルに来るはずだったが、ガンで亡くなったという。日本で暮らしていた高倉さんが帰伯を決めた理由の一つが「かわりに、私の骨をブラジルに埋めること」だったと話していた。
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 日本に戻ったぶえのす丸はその後、陸軍に病院船として徴用され、四三年十一月、太平洋上南方で敵機の空爆を受け、沈没した。

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