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コロニア新世紀を占う=どうなる、どうする=ブラジルの〃ニッポン〃=各界10人が大胆に予想

ニッケイ新聞 2008年7月5日付け

 コロニア新世紀を迎えた今、ブラジルは空前の日本ブーム。日本食はもちろんのこと、高まる日本語熱、そして、様々な日本文化の影響は、すでにこの国の多様性を語るには欠かせない要素となっている。百年をかけて浸透し、ブラジル化した〃日系文化〃が生まれている百周年の今だからこそ論じたい。何が残り、何を、どう残していくべきなのか――。各分野の十人にそれぞれの現状、そして将来について、大胆に占ってもらった。今のコロニアが百年後のコロニアに送るメッセージだ。

ブラジル日系のこれから=宮尾 進(サンパウロ人文科学研究所元所長)

 移民百年のメインの記念式典も無事終わった。今年中はまだ、いろいろなイベントがあるだろうが、これから「ブラジル日系人」の第二世紀の歴史が開始される。
 そこで日系人にとって、いま一番の関心事は、今後のブラジルの日系はどうなるのか、あるいはどうあるべきなのか、ということであろう。
 ということで、ニッケイ新聞から与えられたテーマは、「これからのコロニア」について、ということであった。従って、このテーマに沿って、私個人の思っていることを簡単に記してみることにする。
 最初に断っておきたいことは、筋道をはっきりするために、用語について私の考えを書いておきたい。
 まず「日系コロニアはどうなるか」の「コロニア」には、色々な意味があるが、ポルトガル語の色々な辞典を見ても「コロニア」とは外国人の移民集団のことであり、これには「後継世代でその移民の伝統文化を保持しているものも含まれる」としている。
 コロニアの中心はあくまでも、移民世代の作り上げてきた集団で、それにアイデンティティ=イデンチダーデ(自分もその集団に帰属するものであるという意識)を持っている者を含めた集団を「コロニア」というのである。
 そして最近では、「コロニア」という用語に代わって、ブラジル生まれの世代層の間では、「コムニダーデ・ニッケイ」という用語が使われるようになってきた。
 「コムニダーデ」というのは、一般的に共同体、共同社会といわれるように、ここに参加する者たちが、互いに感情的・心情的にひとつの結びつきを持つ集団のことである。
 従って、「コムニダーデ・ニッケイ」とは、日系人という共通の意識のもとに、互いに結合している共同体のことである。
 だから、日系人であっても、日系人という意識も持たず、この共同体に参加しないものは、「コロニア・ニッケイ」あるいは「コムニダーデ・ニッケイ」の人間ではない。
 そこで今、ブラジル日系人は、概算百五十万人と見られているが、これは単に日本人の血をひく日系人と呼ばれる者が、ブラジルにそれだけいるだけのことであり、「コロニア・ニッケイ」あるいは「コムニダーデ・ニッケイ」を構成する日系人数は、おそらく多く見積もっても十分の一、十五万人程度であろう。
 これからの日系社会なるものを云々する場合、そこらへんのことをよくわきまえておくことが必要であろう。
 さてそこで、これからのブラジル日系人について見ると、今後ますます日本人の血をひくブラジル日系人は増加して行くことは明らかであるが、そうした日系人がどれくらいいるかということは、調べようがなくなるだろう。
 それはなぜか。混血度が増して行くことは、ブラジル社会へ溶け込んで行く度合いを表すきわめて象徴的な指標であるが、私たちが移民八十年の折に行った調査に基づいて推計すると、現在おそらく三世世代の六〇%、四世世代の八〇%はすでに混血であり、五世、六世世代ともなれば、殆ど混血ばかりとなる。
 純血日系は見られなくなると同時に、「ニッケイ」という呼称もこれにつれて次第に消えていき、ほんの一部「コムニダーデ・ニッケイ」に留まる者を残し、「ニッケイ」なるものはブラジル社会のなかに、同化埋没していくことになるからである。
 これはもう防ぎようもないことであるが、こうした状況のもとで、いま私の考えている一番大事なことは、かつてブラジルに移民としての日本人コロニアがあり、その移民世代が百年の歴史のなかでこの国にもたらした、伝統的日本文化の良き資質を、日系の後継世代のみならず、ブラジル社会の中に広く移植浸透させて、残していくことである。
 その一つは、私が早くから主張しているいわゆる「日伯学園」的教育施設を数多くつくり、先進移民諸国が既にやっているように、それらの学校の教育を通して、日本移民のもたらした日本文化の優れたものを、伝えていく努力をすることである。
 日本移民の持って来た日本文化の伝統的な良き資質には、協調性、団結力、あるいは組織力、忍耐力、といったようなものがあるが、ブラジル人一般が既に認めている正直、誠実、勤勉ということだけでも、ブラジル社会一般に教育を通して普及、浸透さし得たら、ブラジルはもっと素晴らしい社会になるだろう。
 これからでも遅くない。いま生き残っているコロニア及びコムニダーデのひとりひとりが、自覚努力してこれを推し進めることである。そのことが、これからの百年、ブラジル社会にもっとも大きな貢献をすることにもなるだろう。
 さて、最後に私が常に残念に思っていることをもう一つ。
 私の属するサンパウロ人文科学研究所は、移民七十年祭の折に、半田知雄、斉藤広志といった人たちをはじめとして、多大な努力をして、ブラジル日本移民史料館を文協に作ってもらった。
 私も最初からこの建設に参加したが、私は当時からたとえ日系コロニアがブラジル社会の中に埋没していったとしても、立派な移民史料館が残れば、日本移民がこの国にあって、どういう歴史を辿り、どんな貢献を果たして来たかを、ブラジル人の間に視覚を通して、わかりやすく伝えることが出来るのだ、ということで、この史料館の存在意義を非常に重要なものと考えていた。
 しかし、年を経ると、それも忘れられてしまったのか、特にコロニアも戦後の歴史の方が長くなり、それに沿って史料館も改造することが必要となってきた九十年祭当時、われわれ研究所のメンバーは、文協の要請により、新しい史料館造成のために、心血を注いで改造のシナリオをつくった。
 これに基づいて、日本の博物館専門業者のすばらしい設計まで出来たのに、結果は何も生かされず、移民百年の真実の歴史を語るものからは遠いものになってしまった。そのことを私は本当に残念に思っている。
 出来ればもう一度史料館を作りなおし、日本移民がこの国にあったことの事実を、永久に伝えていくべきだと、考えている。
 以上、字数に制限があり、舌足らずな内容になってしまったが、これからの世紀がどうなるのか、そしてその百年に向けて、われわれが早急にやらなければならないことは何であるかを記した。

みやおおさむ◇サンパウロ州アリアンサ移住地出身。戦前に訪日し、信州大学を卒業後、五三年に帰国したいわゆる帰伯二世。日系社会研究に関する著作多数。

「在日ブラジル人一世」からの伝言=アンジェロ・イシ(武蔵大学准教授)

 私は二〇〇八年六月十八日をブラジルではなく、日本で迎えている。同じように日本で「移民の日」を迎える仲間が、他に三十二万人いる。これほど多くの日系人が百周年記念祭の時に故国ブラジルを離れていることの意味が、果たしてどの程度、理解されているだろうか。
 私が生で見た移民祭とは、七十年祭と八十年祭だ。七十年祭当時はまだ中学生で、放課後に通っていた日本語塾の学生の一人として、パカエンブー・スタジアムで日の丸とブラジル国旗を振った。
 八十年祭当時はサンパウロ大学でジャーナリズムを学ぶ傍ら、ニッケイ新聞の前身であるパウリスタ新聞のポルトガル語編集部で務めていた。
 西城秀樹、北島三郎、近藤真彦など、続々と来伯した日本の歌手たちがインタビューできたことで、私の日本に対する関心はますます深まった。 数々の記念イベントはいずれもたいへんな盛況ぶりで、多くの人が「日系人の成功と日系社会の成熟」を自慢していた。
 しかし、あの八十年祭は、同時に、「デカセギ元年」でもあった。もちろん、「デカセギ元年」を特定するのは強引なことだと承知している。
 私がNHKの名古屋局が新設した在日ブラジル人向けのポータル・サイトのコラム(「現代の移民はいつ百周年を祝えばいいのか?」)でも書いたとおり、八〇年代以降にブラジルから日本に渡り始めたデカセギ移民については、いったい、何年の何月何日を「移民零年」として設定すればいいのかについて、明確なコンセンサスが得られない。
 他方、日本に住むブラジル人の間では、八八年からデカセギ移民史を語り始める者は少なくないことも事実である。
 興味深いのは、横浜を拠点とする日系ブラジル人のリーダーが同年を戦略的に「デカセギ元年」と称し、「百プラス二十の会」という運動を始めたことだ。
 つまり、移民百周年記念に便乗して、同時に「デカセギ移民の二十周年も祝いましょう」という趣旨である。ここには、在日ブラジル人の存在を無視せず、認知してもらいたいという明確な意図が垣間みられる。
 私はデカセギ現象を研究する目的で、九〇年に日本に留学した。そして、日本に止まった人々の生き様を追跡しているうち、いつのまにか自分も日本に移住してしまった。
 移民九十年祭にも参加できず、百年祭も見逃す羽目になってしまった。
 日本にこれからもずっといる(かもしれない)ことをもっと素直に受け止める意味合いをも込めて、私はもはや「日系ブラジル人三世」ではなく、「在日ブラジル人一世」だと自己紹介をしている。
 さて、すでに二世が誕生した在日ブラジル人社会の未来は明るいのか、それとも暗いのか。どちらに目を向けるかによって、見方もずいぶん変わるだろう。暗い話題については、日本のマスコミや研究者がとても熱心に(そして、大げさに)紹介してくれているので、今さら私が書く必要もないだろう。そこで、敢えて明るい展望や、あまり指摘されて来なかった問題をいくつか紹介してみたい。
 まず、在日ブラジル人社会は今後、ブラジルの日系人社会に対する影響力を徐々に強めるだろう。
 現に、メディア企業に限定して言えば、私も考案者の一人である『MADE in JAPAN』という月刊誌の例がある。この雑誌は、東京を拠点に在日ブラジル人向けの週刊紙を発行した企業が、日伯両国での販売を想定して創刊したものである。
 それが今では、ブラジルにおける日系メディア界において重要な位置を確立している。他の業界でも、今後、日本で成功したブラジル系企業がブラジルに「進出」して影響力を強めることが予想される。
 もう一つの楽観的な展望は文化活動についてである。デカセギがブーム化した当初、日系社会の「空洞化」が懸念された。
 しかし、グローバルな視点で見れば、サンパウロでカラオケ大会が一つ減ったぶん、群馬県大泉町でカラオケ大会が一つ増えた。ミスコンテストにしても、日本では一つどころか、二つもの「移民百周年記念ミスコンテスト」が開催されるという盛況ぶりだった。
 ちなみに横浜で行なわれたコンテストでミスたちが纏った服は、日本を拠点に活躍するブラジル人デザイナーである私の妻、Linda K.が日伯交流をモチーフにしたコレクションであることもアピールして置こう。
 つまり、ブラジルで行なわれていたイベントが空を飛んで日本に移動したという意味で、移民のイベントが「空動化」したという見方が可能なのだ。
 最後に、一点だけ、理想論を述べさせていただこう。日本・ブラジル両国の関係者が本気でこの日伯交流年を盛り上げたいのであれば、日伯間のビザ免除協定を結ぶように努力すべきだ。
 周知のとおり、ブラジル人の来日希望者にとって、ビザ申請時の厳しい審査は大きな壁である。百周年委員会としても、日本政府が廃止を検討している「日系人」ビザの存続を提言してはいかがだろう。
 ビザの壁を無くすことこそが、両国間の人的交流を活発化するための遺産となり得るだろう。

 アンジェロ・イシ◇サンパウロ市生まれ。九〇年に訪日し、移民やデカセギ社会の研究のかたわら、ジャーナリスト活動を行なう。『ブラジルを知るための55章』などの著書がある。

環境問題と日伯関係=中村 矗(パラナ州元環境長官)

 日本からブラジルへの移住が始まって、百年になる。もちろんその間には、様々な困難があり、或は、すばらしい成功があり、悲しみがあり、喜びがあったと思う。
 しかし、総して、ブラジルに対して、日本人移住者は、その民族のすばらしさ、勤勉さ、正直さ、誠実さ、辛抱強さ、謙虚さ等などその民族性を保ち、失わず、ブラジル社会に大変な貢献をしてきたことには、誰一人反対をする者はいない。
 日本人の教育の高さ(学歴ではなく)には、どのブラジル人も尊敬の念を持って接する。
 私も日本からの農業移住者で、一九七〇年にサントスへ上陸した。あれから早三十八年、今では、ブラジルでの中村家の歴史がはじまっている。息子達、それから続く子孫達―、やった! という思いである。
 我々移住者そしてその家族、子孫達が、この百周年に当って、まず口を揃えて言わなければならないのは、「私達を暖かく受け入れてくれてブラジル、どうもありがとう」であろう。 そしてその感謝の気持ちとして、日本文化のすばらしさ、教育のすばらしさをブラジル人に伝えていくことが我々元日本及び日系ブラジル人に与えられた使命かと思う。新しい素晴らしい文化をブラジル人と共に作っていく使命。
 私は、ひょんなことからクリチバ市の環境局で、自分の専門を生かして働くことができ、色々なプロジェクト、公園、貧困・ファベーラ、ゴミ問題対策を施行することが出来た。
 計十二年間環境局長としてクリチバ市及びパラナ州の環境についての先端を走ることになり(一世としては、かなり異例なことだったと思う)、そしてそれなりの良い結果をつくり、日本人としてその成果をブラジル社会に貢献できたと思う。
 特に、花通り、公園つくりと、再生可能ゴミの仕分けプロジェクトでは、世界的にもひとを大切にする街づくりとして、ブラジルのイメージを環境都市、環境国家として、良くしたものと信ずる。
 これまでは、農場開拓として、部分的には森林を伐採して来たかも知れないが(それは生きる必要性からで)、これからは、日本人が伝統的に持つ自然との調和の精神で、ブラジル人と共に環境に正しい社会を造って行かねばならない。 例えば、クリチバには多くの公園がある。しかも1人当りの緑地面積は、五十五㎡で、世界第二位の都市である。一般的に、緑地面積の多い都市は、生活水準の高い都市と考えられているが、クリチバ市はどうだろうか? 発展途上国の一地方都市である。
 しかし、世界の専門家の集目を集める都市になった。それは、公園つくりには、別に良い平坦な土地でなくても、ガケあり、沼地あり、水害ありの経済的にどうしようもない土地でも、扱い方ひとつで、素晴らしい特長のある公園になる。
 これは、日本が伝統的に持つ、そこにある自然をうまく使い、無理のない調和されたものにする特技である。故にクリチバ市の公園は、ほとんど全て、心の安まる、意匠のおもしろい、建設費もほとんどかからないものである。これは、日本文化とブラジル自然との協働の結果である。
 最近、世界的に地球温暖化防止、また生物多様性の保全が叫ばれ、地球人類の危機とも一部の科学者達が警告を発している。
 ここブラジルでも多くの都市、州でこの問題を取り上げており、テレビでもかなり頻繁に放送されている。そこで考えるに、これからの移住百年は、日本とブラジルが手を取り合って、地球環境について問題解決を世界に示し、実践し、地球を守るイニシアチーブを取っていく百年だと思う。
 この百周年は、新しい日本・ブラジルの決意の記念日になるべきである。現に、私は兵庫県出身であるが、姉妹県(三十八年目)パラナ州とは、すでに協働作業が始まっており(〇〇年から)、兵庫県井戸知事は、今回百周年式典に参加するため来伯された。
 兵庫・パラナ国際環境シンポジウムに参加され、また現在進行中のパラナ州湾及び沿岸地域の持続可能開発の兵庫・パラナプロジェクト(JICA協力)の現場視察も行なった。
 大変な意気込みで、三人の兵庫からの専門家も参加し、これからの兵庫・パラナ引いては、日本・ブラジルの環境についての協力態勢はしっかりしたものになっている。
 多分、他の県・州との友好協定でも、これほど実際にプロジェクトが進んでいる例はないかとも思う。それ故、この百周年を記念して、全日系人は、これからの百年、地球環境保全に向って、ブラジル・日本の協働を唱えるべきだと進言する。
 パラナグア湾の場合、兵庫の瀬戸内海を汚染し、一時は漁業にも影響を与えた間違いを、そしてそれを克服した素晴らしい技術をこのブラジル・パラナグア湾で同じ間違いをしないように、パラナ州の技術者達と、また漁師達と結束して、残されたすばらしい自然を保全し、そして持続可能な開発を計画し、漁師達にもよりクオリティーのある生活を保障する目的で両州県がすでに実践している。
 これこそ、これから先移住百年に向っての日伯間の新しい方向性ではないかと思う。今回の移住百周年では、何か日本文化のそれも珍しい変わった文化の紹介的なイベントで、太鼓をたたいて、盆踊りをして、刺身・寿司を食べてとか、或は、日本庭園を造成するとかで、あまり移住という本質的なことにはかかわりのないもので、もう少し内容のある、しかもこれからの全ての日系人の支えに、そして移住者達の開拓精神を引きつぐ前向きなものが必要であったのではと、私は思う(もちろん悪いとは云わないが…)。
 先日、NHKで出稼ぎで日本で労働されているブラジル人(日系人がほとんど)の問題が取り扱われていた。そして逆移住だとも、またそのほとんどが、よりよい賃金で、金を貯めるのが目的であるとも。
 日本人移住百周年を前に、何か複雑な気持ちでニュースを聞いていた。もっと意義のある移住、そして地球の歴史に残るような移住であって欲しい、これからの百年、全ブラジル日系人、大和魂を忘れず、気を入れて頑張ろう。

 なかむらひとし◇大阪市立大学農学部卒業。クリチーバ市の農場に入った後、同市に勤務し、環境保全計画に携わる。市観光局長(八九年)、パラナ州環境庁長官(九五年)を歴任した。今年、出身の兵庫県から県知事功労賞。

日系アートのこれから=吉沢 太 (造形作家)

 十四年前初めてブラジルを訪れ、後にサンパウロに住んでから、十年以上が経過する。
 私が造形作家活動を続けてこられたのも、ブラジルの友人達や日系アーティスト等に支えられて来たからこそである。そして、歴史的百年目をこの地で迎え、参加させてもらえる今を光栄に思う。
 先人の苦労に敬意を表し感謝するとともに、我々が忘れてならないのは、「ジャポネース ガランチード(日本人は保証付き)」と上に馬鹿がつく程の真面目さと正直さによって勝ち取ってきた信頼ではなかろうか。これこそが今後の日系社会を支えて行く重要な鍵である。
 さて、まずは日系美術の創成に触れてみたい。一九三五年に「聖美会」が半田知雄、玉木勇治氏ら十人ほどのメンバーを配し、産声を上げた。
 彼らこそが共に旅し写生を重ね評論し合った日系画家の開拓者たちであり、すでに彼等は具象の世界で「反アカデミズム」を掲げていたのだ。
 しかし、第二次世界大戦中日本人が集まることを禁じられ中断。四七年に再開した。     
 四〇年代後半よりブラジル画壇は盛り上がりをみせ、五一年サンパウロではビエンナーレが始まる。メンバーの多くがビエンナーレに選考され、あちこちのサロンでも受賞、日系画家が脚光を浴びた。数人が抽象に移行、間部学氏らがブラジル抽象画の礎を築く。
 五〇年代後半に戦後移住世代が続々と加わり、七〇年にはサロン文協に移行。そして、八〇年代に入り日系美術界は二世を多く含む現代美術世代に入る。
 教育の面で高岡由也氏は絵画を教え、初の日系人画家。森ジョルジ氏が育つ。また、ブラジルに初めて墨絵を紹介した沖中正男氏により日系、非日系の多くが筆使いを学んだ。
 戦後世代でいち早くブラジル画壇に加わり、ローリングストーズとの交友でも知られる楠野友繁氏は、美術大学で言葉の壁を越え一風変わったスタイルで多くのアーティトを育てた。
 さて、この百周年を機に多くの行事が開催されているが、アートに関する行事は他と少し異なった印象を受ける。多くの美術館、文化センターがこぞって日本を題材に展覧会を行う中、企画運営の多くが非日系人による事だ。
 ある現代美術コレクターは、「過去にこれだけ多くの美術施設で移民年を取り上げたことがあっただろうか」と口にした。知る限りを共に数えた。なんとサンパウロだけで十五以上に上った。
 主に、サンパウロ近代美術館の世界的キューレター長谷川祐子氏による企画。サンパウロ大学現代美術館で収蔵展『ブラジル・日本アートの近代から現代』が行われ聖美、オノ・ヨーコ氏の作品などに加え、若手作家の作品も見る事が出来る。
 そしてサンパウロ州立美術館(PINACOTECA)で開催中の『日系ブラジル作家展』、トミエ・オオタケ文化センターで行われている『視線の絆』展は高く評価されている。出品者の一人、ニューヨーク在住の作家リジア・オクムラ氏が「同じ日系人として参加できて嬉しい」と話したことが印象深い。
 そして百周年の展覧会で注目すべきは、ロベルト沖中氏の存在である。四歳の頃から、両親に連れられ聖美会の会合に同席、歴史を肌で知る。『視線の絆』展でアシスタント・キューレーターを務め、的確に誰のどんな作品が何処にあるかを熟知し展示の流れをサポートした。
 「ブラジルの美術史に重要な聖美会作家の作品を今残さなければ風化してしまう」と力説するロベルト氏の尽力の末、聖美そして現代作品を収蔵に加え、古くは二八年富岡清治作を筆頭に、八十年に及ぶ日系作家の歴史の流れを刻む事となる。
 九五年には、『日伯修好百周年展』をサンパウロ大学現代美術館で企画を担当した。ちなみに私も日本側で同企画に参加。これを機に新たな両国のアーティストが多く行き来し、交流が広がることになる重要な展覧会であった。
 そして、ブラジルの日系二大巨匠の名を配した美術展示施設がこの移民百年に出揃うというのもいみじくも廻り合わせではないかと思う。
 五〇年代以降のアートを主軸に企画の質の高さ世界との企画交流で支持されている「トミエ・オオタケ文化センター」(Insttituto Tomie Otake、〇一年設立)と、ブラジル政府の援助も手伝い、「間部学日伯現代美術館」が今年末に一部開館を目指す。
 日本ではバブルの時代に多くの自治体による美術館建設ラッシュを迎えたが、その後ソフトが伴わず、蔑ろにされて行ったところが多かった。このブラジルでも国や州が有す美術館でさえ困難を極める運営であると聞く。館長の交代での浮き沈みも見てきた。
 しかし、政治力を持つ間部家の運営、企画力によって日系アートの城となる事が期待される。ブラジル社会に再び日系画家の印象を刷り込む事になるだろう。
 かくゆう私も「次の百年に紡ぐ種を蒔く事が出来ないだろうか」という思いから、数年に渡り日伯間を行き来し実際の交流を重ねてきた作家達と「ジャパンブラジルアートセンター(JBAC)」を設立した。
 最初の活動として、ブラジル美術の現在を紹介する交流展を今年九月に、神奈川県川崎市で行う。十二月には、サンパウロで交流展を予定している。これからの活動が今後の日伯を繋ぐ新なきっかけ、橋渡しになることができたら嬉しい。
 何年分の展覧会をこの一年で行う事になるのであろうか。「シェガ!! ジャポネーズ(日本人、いい加減にしろ)」という事にならないように、浮かれ過ぎず、襟をただし、「ジャポネース ガランチード」といきたいところである。
 現在ブラジルは世界アート界に作家を送り出している。確固たるカテゴリーを持たない現代美術の時代でもある。心象の独自性がより要求される今だからこそ、日系アートの時代がきているともいえよう。
 日系人アーティストは生れながらに二つの文化を持ち、ブラジル特有の文化混合に育つ。独自の面白い表現が生まれる土壌である。ブラジルを土台に彼らの活躍が期待される。

 よしざわふとし◇一九六四年埼玉県に生まれる。武蔵野美術大学でテキスタイルデザインを学ぶ。九四年デコ画廊主宰田口秀子氏の招きで初来伯。現在サンパウロ市にて造形作家活動を行う。

ポスト百周年の日系団体=中島エドアルド剛(ブラジル日本文化福祉協会事務局長)

 今年、日本移民百周年を迎えているブラジル日系社会は六世の誕生という現実とともに、近い将来日本人の「顔」が独占した日系社会は消滅するであろうと考えられる。
 しかし、日本移民・日系人が世界に誇る真の多文化国家ブラジルに貢献した業績は偉大であり、農業を始め物理的な要素だけではなく倫理、道徳など精神的な要素も含めてこの国の文化として根付いてきている。 将来の日系社会では、血筋に拘わらず「日本文化」を全般的に保存・伝承したいという「人」たちによって維持されるという「夢」が実現し、「ブラジル日本文化社会」若しくは「ブラジル日本文化圏」としてさらに拡大・発展することになろう。
 これらの動きに不可欠な「人」の育成の「場」として、現存する四百以上の日系団体の「改善」、新たなマネージメント手法の導入が必要であり、また、中央機関であるブラジル日本文化福祉協会「文協」も空気を一新した環境で機能することが求められる。
 日本・ブラジル両国の交流を保ち、さらに進展・拡大させながらブラジル的な変身を遂げた日本文化が祖国日本に影響を与える日もくるであろう。
 文協への新たな空気といえば、〇二年の後半に文協改革準備特別委員会が結成されてから新しい風が吹きはじめたといってもよい。
改革委員会は協議を重ねた末に最終報告書を作成し文協が果たすべき最も重要な役割として:
1)ブラジル日系コミュニティー代表としての存在、
2)ブラジルにおける日本文化の伝統的価値観の伝承および普及、
3)その他の日系団体への支援と協力。
4)日系コミュニティーの現在だけでなく将来も見据えた思考、を挙げている。
 文協は〇三年四月より上述の最終報告書をベースに運営・管理されるようになり、二年後の創立五十周年記念行事の中で理事会は協会の理念を提案、「日系コミュニティーを代表し、ブラジルに於いて日本文化の伝承及び普及、日本に於いてブラジル文化の普及を推進し、この事業に携わるものを奨励、支援する」との活動理念が定められた。
 こうした経緯のもとに昨年後半文協の戦略的企画案が理事会によって承認された。文協は団体交流活動と文化・社会活動という二つの大きな課題を背負っているものと言える。
 団体交流活動の「柱」は、「文協は日系コミュニティ―の代表的存在であり、又、そうでなくてはならない」と文協改革委員会の最終報告書に定義されているように、日系コミュニティ―、政界、財界など全ての団体と交流する能力を持つことであり、代表的立場を確立する為にはブラジル社会における積極的な活動を展開しなければならない。
 文化・社会活動の「柱」は、本協会の活動目的として確立されており、さまざまな形式による日本文化の普及活動を更に活発化させる機構を確保して行かなければならない。
 さらに、この二つの大きな柱を支える運営・管理の基盤となる「柱」を確立する必要がある。それには熟練した有能な職員、資金調達機構、適切な交信ツ-ルの整備等があげられ、第三の柱を整える為に必要とされるものである。
 これら三つの柱の構築はブラジル社会に於ける文協の役割を確保することを主な目的とするものであって、それぞれの柱に理事会、地方理事、実行委員会の実質的な参加が不可欠であるという事は明瞭である。
 それぞれの柱によって展開される事業に相応しい理事会および委員会を設置することの利点は、活動趣旨の認識と専門知識が集約出来るからである。
 趣旨の認識が高まれば活動の効率が良くなり、専門知識を持つ者よって運営される場合、行動も組織的になり資金的な効率の良くなる可能性も生まれる。
 従って、担当する者の能力はそれぞれの柱の運営上重大な要素であって、適材適所は成功のチャンスをもたらす要因である。
 更に大事な点はこの三つの「柱」が協会の情報を相互にアクセス出来るようにする事である。文化・社会事業の「柱」は文化活動(商品)を適切な能力を持って開発し、その〃商品〃は連絡委員会を通じて他の団体にも提供されるべきである。
 管理委員会は第三の柱としてこれらの事業推進に必要な基盤を提供し、全委員会の統活による文協全体の円滑かつ効率の高い運営の重要なポイントとなる。
 改革委員会は、協会の中にこの三つの柱を確立させる事がその基礎を固め安定した活動基本となるものと理解している。
 〇七年五月より新しく設置された日系団体連絡委員会(CRA)は団体交流の柱の中核であって、その設置及び第一回文協統合フォーラムによって文協が地方団体と共同して積極的に活動する第一歩を踏み出したと言える。
 更に〇八年初頭には文化委員会の設置が決定され、〇九年度からの文化活動を統括し各委員会が共同体制で事業を推進する。
 〇八年下半期には管理委員会を立ち上げ、協会の管理機構を確立する。同委員会では次期理事会の構成が大きく影響すると見ているが、事業を支える各柱の設置に関する配慮と人員構成への感覚がその組織の安定した基礎作りに大きな影響をもたらすからである。
 最初に触れた「日本文化社会」とは日本人の「顔」が独占する社会ではなくなるとともに、中心機関である「文協」の存在とその運営・活動が、従来のサンパウロ都市圏中心型から各地方代表の参加による「議院制」のような型に変わっていくであろうとの見通しに立脚するものである。
 それにしても、いま健在の協会創立を知る方たちから見れば、近年の新しい動きとは言っても、五十数年前の考え方と基本的にはあまり変わってはいないと言われるのではないだろうか。
 五八年、移民五十年祭には三笠宮殿下ご臨席のもとに文協ビルの定礎式が行われ、今年の移民百年祭では、文協ビル内のブラジル日本移民史料館に皇太子殿下から御下賜金がもたらされた。「温故知新」とも、歴史は繰り返すとも言われるが。

 なかじまえどわるどごう◇一九五九年モジ・ダス・クルーゼス生まれ。サンパウロ大学卒業後、日系企業などに勤務し、〇三年から現職。

邦字紙はいつまで続くか=吉田尚則(元ニッケイ新聞編集長)

 表題に関しての原稿依頼を受けた時、少し当惑した。ふだんなら「所期の使命、目的を果たしたら散華さ」ていどに受け流すだろう。しかし相手は三十代の若い記者である。軽々に散華などと言っては気の毒だし、楽観論を述べるのも無責任にすぎる。辛いテーマである。
 そもそも当地の邦字紙にとって、「所期の目的」とは何か。記者たちが古典的使命感に燃えていた時代、報道は正確・迅速性、娯楽性に加え啓蒙性の追求にあった。サンパウロ人文科学研究所刊『人文研』(一九九八年二、三号)に、かなりの本数におよぶ戦前邦字紙の社説・論説が収録されてある。戦前の記者経験もある清谷益次同人文研理事の労作だ。
 氏はこのレポートで、初期移民社会における邦字紙の役割の重要性にふれるとともに、指導・啓蒙性に横溢した論説の多さを特筆している。「移民かくあるべし」といった記事が紙面に踊っていた。
 戦後、再発行される邦字紙からは、大上段に振りかぶった啓蒙型論説はしだいに影を潜めてゆく。これに代わり、ニュースの解説性が「所期の目的」として登場する。母国から書籍が空輸され、衛星放送が世界の動きをリアルタイムにお茶の間に運ぶ時代である。
 読み手には高学歴者がふえ批判力も増している。若干の娯楽性を残しながらも、邦字紙は迅速性や指導性を大幅に失った。その上で読者が右顧左眄することのないよう、氾濫するニュースを整理、検証し解説を付けて届けるのが邦字紙の使命となった。
 例えば今年の日本人ブラジル移住百周年ー。日系社会は、大学教授や元判事らを指導者に推戴して大祭の準備に取り組んできた。内外にきわめて批判の多い人事だが、歴史には意思があるといわれる。
 確かに一世紀にわたる日系社会史の意思が働いて、この人たちを壇上に上げたといえよう。選択の責任が我々の共有する歴史にあるということは、コロニア構成員のいずれもが背負わなければならない宿命であったことにつながる。
 表面化した事態のみを促えての批判にとどまらず、解説記事にはこうした本質を深くえぐり出しての洞察力が求められる。
 話がやや逸れた。この雑感そのものが迂回したが、「所期の目的」の最後は周知のように読者がゼロに至ることだ。移民新聞は読者ゼロ化から逃れることはできない。
 最後の移民読者に新聞を配達して邦字紙は、「所期の目的」を完遂、散華する。若手の記者からは異論があるかもしれない。だが、インターネットで母国の人々にニュースを配信するような手段が邦字紙としての延命策につながるかどうか。
 もちろん、悲観的展望ばかり見通されるわけではない。移民社会で九年先輩のペルーでは、『ペルー新報』が日本語頁は縮小させながらも日刊紙として気を吐いているし、ハワイでも『ハワイ報知』が英字新聞を切り離して発行するなど健在ぶりをみせている。
 当地の邦字紙でいえば、一九七〇年代には「先行き短い」と言われたものだ。その後四半世紀を経て、紙面内容の充実さはむしろ往時をしのぐのではないか。
 読者の減少はさておいて、懸念されるのは編集者、前線記者の払底化である。ニュースの送り手がいなくなれば、所期の目的を達せずして新聞は廃刊に追い込まれてしまうだろう。
 現在の一線記者はいずれも自由渡航者ばかりで、その脆弱な布陣は常に危惧感がつきまとう。経営者には今後とも人材確保に最大の努力を払ってもらいたいところだ。
 邦字紙経営者にとっての今一つの「所期の目的」は、日本語編集部が元気なうちに、ポルトガル語の真の日系クォリティペーパーを立ち上げることである。
 一世移民は、自らが肥やしとなって二、三世の大樹を育て上げ、この国の沃野をいっそう豊かに多彩に広げている。邦字紙もある面、移民一世の立場と同様だといえよう。
 このいわば文化的所産を日系人のアイデンティティの拠りどころとなるようなポ語新聞に育てる事業こそを、邦字紙発行の最終目標におくべきではなかろうか。移民百年の節目にあって、このことを切望する。

 よしだなおのり◇一九四〇年生まれ。六四年に来伯し、パウリスタ新聞に入社。日本語雑誌などの編集を経て、再びパウリスタ新聞で専務。九八年から〇三年までニッケイ新聞編集長。

日本語教育の重要性=丹羽義和(ブラジル日本語センター事務局長)

 ブラジル日本移民百周年の今年、茶道、生け花、折り紙、などの日本文化、すしなどの日本食、柔道、剣道、相撲などのスポーツ、農業面などにおける日本移民の功績、太鼓、ヨサコイソーラン、日本語教育などの日系コミュニティの活動などが連日のようにテレビ、インターネット、新聞などで紹介されました。
 想像をはるかに超える報道に接し、驚きと同時にブラジル社会が持つ日本や日系人に対する親近感の強さを実感しました。百年で、着実にブラジル社会での地位を築き上げた百五十万にといわれる日系社会の一員であることを誇りに感じています。
 このように日本や日本文化はブラジルにとってなくてはならない存在となっています。私が携わっている日本語教育でも例外ではありません。
 一九九三年に国際交流基金が行った調査では、二百七十四の学校で八百六十八名の先生が一万六千六百七十八名の学習者に日本語を教えていましたが、〇六年には学校五百四十四校、先生一千二百十三人、学習者二万一千六百三十一千人と大幅に増えています。
 これは、アジア、北米地域以外では、最大で、世界でも十三番目です。三番目はオーストラリアで、三十六万六千百六十五人、六番目はアメリカで、十一万七千九百六十九人の学習者となっています。
 このようにブラジルの数倍、十数倍の人が日本語を勉強しています。しかし、ブラジルでは、学習者の四分の三強の一万六千五百三十三名が日本人会などの民間の私塾で日本語を勉強しているのに対して、オーストラリアでは、わずか四千百四十一人、日本と政治、経済面で最も関係の深いアメリカでもブラジルより少ない、一万四千五百二十五人が授業料を個人が負担して、学んでいるに過ぎなく、その大半が小中高等学校あるいは大学で勉強しています。
 百周年を記念した「ビバ・ジャポン」が州立校で大きな反響をもたらしているように、ブラジルにはこれからどんどん日本語教育が広がる可能性があります。
 これほどまでのブラジルの熱い眼差しに比べて、日本での関心の薄さが残念でなりません。「日系人は日本の財産である」という言葉をよく耳にします。
 しかし、ジェトロのビジネス日本語能力テスト、国際交流基金の日本語能力試験の民営化、JICAによる日本語教師の本邦研修制度の廃止などが検討されるなど、民間による日本語教育が主体のブラジルや他の中南米諸国における日本語教育を根底から揺るがしかねないことが起こっています。
 特に、民間で教えている先生方には公的な支援を受けて、研修を受ける機会が全くなく、立派な先生になるには日本を知り、日本で学ぶことが必要不可欠なことはどなたにでもご理解いただけるかと思います。
 サンパウロでは六月二十一日に百周年記念式典が行われました。「ブラジルは日本移民から勤勉、正直、団結力など多くのことを学ぶと同時に、明朗さ、寛容さを彼らに伝えました。
 そして、ブラジルは今日の発展を向かえ、今後も大きく寄与していくでしょう」という日本移民の歴史を振り返るシーンと、私の後ろに座っていた三世の若者たちが皇太子様に対して熱い拍手をおくると同時に、「どうして式典委員長は日本語で挨拶をされなかったのだろう、恥ずかしく思う(後日、新聞紙上で、手違いがあったと知りました)」とポルトガル語で話している姿が印象的でした。
 ブラジルに生まれたニッケイ人であることに誇りを持った若い世代を逞しく思うと同時に彼らが日本文化を大切に思い、それを継承し、ブラジルの今後の発展に貢献していくだろうという思いを強く持てたからです。
 「信頼できる日本人(ジャポネスガランチード)」からブラジルを発展に導いてくれるニッケイ」という賛辞を得るに至った現在、ブラジルと日本の友好親善関係の絆をさらに太くするためには、日本文化、日本語を通してブラジルの発展に寄与することが最も重要であると確信しています。

 にわよしかず◇一九五六年愛知県生まれ。七八年渡伯。八六年から日伯文化連盟(アリアンサ)に勤務、九三年から事務も兼任。九六年から現職。

千年たったら祝いましょう=岡村淳(記録映像作家)

 今年は源氏物語が、千周年を迎えるという。記録の上で存在が確認されてから、ちょうど一千年という計算だそうだ。イギリスの知人によると、来年はオックスフォード大学が建学八百年のお祝いをするという。
 歴史のスパンからすると、たかが百年というのは実に短い時間だといえる。私は日本で学生時代に考古学を専攻して、日本各地にある先史時代の遺跡の発掘調査に参加していた。
 最も親しんで発掘していたのは、今から五千年近く昔の縄文時代中期の遺跡だ。日本の天皇家の歴史は、史実としての信憑性の乏しい上代の部分の記述を皇国史観時代にならって百歩譲って鵜呑みにしたとしても、二千六百年代である。
 その倍近くもの古くから日本列島で培われていた、まさしく名もなき人たちの豊かな生活の痕跡に直接、触れさせてもらっていた。 はるか後代にやってくる権威とは無関係の時代の日本列島の住民の心に、学んできたつもりだ。
 百周年だからお祝いしましょう、協力しましょう、カネを出しましょう、という前に、百年というのは人類にとってどの程度の時間であるのかを考えてみるのも悪くはないかもしれない。
 私は今年、五十歳を迎える。百年という時の半分を、この地球で共有しているわけだ。私の仕事の大先輩で、「大アマゾン裸族シリーズ」のTVドキュメンタリーで日本のお茶の間に親しまれ、ブラジルのコロニアの皆さんにも慕っていただいた日本映像記録センターの豊臣靖ディレクターが五十歳で夭折したのが八三年、奇しくもブラジル日本人移民七五周年の移民の日、六月十八日だった。私がそのアトガマのひとりとして初めてブラジル入りしたのが、その年のことだ。
 その時から数えれば、ブラジル移民百周年の四分の一に関わっていることになる。
 TVディレクター時代には「無能」の烙印を押されていた私が、無能なりに少しでも気の利いたドキュメンタリーを作りたい、と願って、それまで毎年のように通っていたブラジルにフリーランスとして移住したのが八七年。
 ブラジル移民八〇周年を迎えた翌年には、日本人移民をテーマにしたドキュメンタリーを二本、手がけて日本で放送している。
 いつまでも学生の延長気分の抜けないジャポン・ノーヴォのチンピラのつもりだったが、こうしてニッケイ新聞から特別号への寄稿を依頼されるようなことになってしまった。日系コロニアの人材不足を察しざるを得ない。
 私がこちらでも少し関わることになった、考古学の視点から日本人移民百周年をみてみよう。面白いことに、ブラジルでの日本人一世が関わった考古学の業績は、第二次世界大戦前に限られる、といっていいようだ。
 戦前の日本人による在野の研究機関、栗原自然科学研究所に所属した故・酒井喜重氏のサンパウロ州の海岸地帯での貝塚調査と報告は、これからのエコロジー時代に通ずる白眉といっていい。
 先史考古学を語るとなると、ブラジルという、せいぜい五百年ちょっとの政治的な地理区分はあまり意味を持たなくなる。
 これまでの通説では、南北アメリカのインディオ、インディアンなどとと呼ばれる先住民は、東アジアの黄色人種、モンゴロイドといわれる人たちと単純に考えられていた。約一万年前の氷河期に、ユーラシア大陸とアメリカ大陸を北辺でつなぐベーリング海峡が海面低下によって陸橋となっていた頃、アジア側にいた人たちが何らかの理由でアメリカ側に渡っていったと考えられていた。
 現在、ブラジルで知られる最古の人骨はミナス・ジェライス州のラゴア・サンタから発見されたものだ。科学的な分析で、一万年以上前のものだと判明している。
 この人骨は女性のものとわかり、彼女は学会ではルジアというニックネームで呼ばれている。南米の人類の歴史のなかでは、日本人移民の到来は、ルジアの時代から百分の一足らずのごく最近のことに過ぎないわけだ。
 さてこのルジアのプロフィールだが、いわゆる黄色人種というより、現在のオーストラリアに暮らすアボリジニと呼ばれる先住民に近いことが形質人類学の研究により、わかってきた。
 また、古代の遺跡から発見される「糞石」と呼ばれる化石化した人糞のなかの寄生虫の卵の研究から、数千年以上前に、太平洋の島伝いに南米大陸に渡ってきた人たちもいる、という説も提唱されている。
 自己満足・成金趣味まる出しのモニュメントを残して、関係者の死後に管理にも行き詰って迷惑されるより、ウンコでもきれいに残してくれた方が、人類史の研究にはずっと貢献できるようである。
 ブラジル、そして南米大陸の特色かつ魅力は、この大地のヒトの歴史を見ても、多様性と意外性だといえそうだ。
 今日の日本では、アイヌ民族などの存在を無視した日本人イコール単一民族といった粗雑な認識が跋扈している。その日本人の起源をさかのぼってみれば、北から、西から、南から、いろいろな時代に様々な人たちが渡ってきて交じり合ってきたことがわかるだろう。
 なかにはある時代に渡ってきて、わずかな遺跡を残したまま、痕跡の途絶えてしまったナゾの民族もいたのだ。
 ブラジルの日系人も、あちこちに赤い門(鳥居)だけを残してブラジル人そのもののなかに融合してしまう可能性も多分にあるだろう。
 悠久の時間から、いま現在に目を向けてみよう。これからのブラジルで、数少なくなるばかりの我々日本人一世は日本語と日本文化をどのようにしていったらよいのだろうだろうか。
 これについては、偉い人たちがいろいろと偉いことをおっしゃっているようだ。
 日本人のなかに美徳があるとすれば、そのひとつは「不言実行」だと思う。祖国の権威やカネにおもねる動きは「敬遠」させていただきたい。実現の見通しもない大風呂敷を広げられて、居丈高に協力を強いられるのも、もうたくさんだ。
 私自身、この国で生まれた二人の子どもの父親となった。今日、子どもたちと何語で何を話し、食事に何をどう作ってどう食べるか。
 文化の継承とは、そうしたことのきめ細やかな努力と、その果てしない積み重ねに他ならない。
 残るべき意義と力を持ったものは残るし、そうでないものはいくら手間ひまをかけても消えていく――そんなことを、日本やブラジルで遺跡を残した古代人、そして多くの日本人移民の先輩たちから学んできたつもりだ。

 おかむらじゅん◇1958年、東京都出身。早稲田大学にて考古学を学ぶ。日本映像記録センターの番組ディレクターとして、日本テレビの「すばらしい世界旅行」などを担当。1987年、フリーとなり、ブラジルに移住。小型ビデオカメラを用いた単独取材を開始。南米の日本人移民、社会・環境問題をテーマとしたドキュメンタリーの自主制作を続けている。

グローバル化におけるスシ=森幸一(サンパウロ大学教授)

 七〇年代初頭まで専ら日系人たちによって「消費」されてきた「日本」料理は八〇年代からエスニックな境界を越えて、非日系ブラジル人たちに浸透しはじめた。最初に「日本」料理に接近したのはサンパウロというメトロポリスに住むファッショナブルな中産階級の人びとであった。
 当時、こうした人びとは健康への懸念を強く持ち、ライト感覚を志向し、ジョギングやジムでの運動を行い、自然食やマクロビオチックな食事を取るなど一連の健康運動を行っていた。
 そこに米国から「健康食としてのスシ・サシミ(日本料理)」という考え方がもたらされ、低コレステロール・低カロリーの日本料理が一躍注目を集めるようになったのである。
 また、当時は日本経済の世界進出に伴う日本文化への関心が強くなったり、日本からの企業人・日系人たちと非日系人との社会関係(ビジネス・友人・親族関係など)が緊密化し、非日系人たちを日本料理へアクセスさせる回路が成立した。
 さらに、非日系人にスシを食させるため、一世の寿司職人たちが様々な創意工夫をこらしていった。このような、様々な社会的文化的条件が日本料理受容の背景には横たわっていたのである(スシ・サシミを中心とする日本料理の受容と浸透はグローバル化の中で、ニューヨークやロスアンゼルス、ロンドン、シンガポールなど世界のメトロポリスでも出現しており、この世界的なトレンドにサンパウロも参入したともいえる)。
 サンパウロにスシを専門とする料理店[スシバー]が出現するのは戦後のこと。専ら、日本人寿司職人が日本(系)人たちにスシやサシミを提供してきたが、その状況は八〇年代から大きく変化した。
 日系スシマンに代わって東北伯出身のスシマンの出現と増加(スシのローカル化の主要な主体である)、リベルダーデやピニェイロス地区など日系人集住地域を越えて中産階層居住地区への進出、コンビナードや食べ放題システムなどの導入、ファッショナブルな料理空間としてのスシバーの誕生、ファーストフードとしてショッピングセンターへ進出した。
 テイクアウト・チェーン店・フランチャイズ制の導入などを通じて、スシ・サシミを中心とする「日本」料理が市民の食生活の中に広く、深く浸透していった(これらの新しいサービス法や空間はそのほとんどが「伝統」を重んじるリベルダーデ地区の外側、つまりイタイン・ビビやジャルジンスなどの地区で主に非日系人スシマンや料理店経営者によって創り出されたものであった)。
 さらにスシ・サシミは主菜から前菜へとその位置や意味を変えながら他の料理空間へ侵入(シュラスカリアやカンチーナなど)したり、手巻き専門店などの新たな提供空間を創造しながら、さらなる広がりをみせ、今では日本料理店は六百軒を超え、シュラスカリア数を凌駕するまでになっている。
 既にスシ・サシミは日常化し、サンパウロを代表する料理となっているが、「日本」料理ブームはさらに深く広く進行している。その一つは焼き鳥、ラーメン、カレー、やきそば、ちゃんこ鍋、居酒屋など、活発な大衆・専門店化の動き、米国や日本からの新和食(フュージョン料理)の到来などを通じての、ブームの対象となる日本料理の多様化である。
 もう一つはスシを中心とする料理のローカル化(ブラジル化)が加速化され、「日本起源のブラジル料理」が盛んに創造されてきているという別の側面での多様化の動きであろう。
 最も最近の動きである「手巻き専門店(Temaqueria)」の出現と増加。巻きものは、ネタを自由に組み合わせられるなど握りよりも応用範囲が広く、特殊な訓練や技術を必要としないものである。このことが、スシの世界を日本的な約束事から解放し、スシの「ローカル化」をさらに促進していくことにつながる可能性が高い。この二つの「多様化」の動きは今後も拡大していくことになるだろう。
 もともと東南アジアの山間部に発祥した魚の保存食品であったスシは日本にもたらされ、鮒ずしに代表されるような乳酸発酵の熟れずしとして継承されてきた。そして、江戸時代に酢酸添加によるインスタント製法が考案されて以来、都市型のスナック、ファーストフードとして生まれ変わった。
 そのスシが今世界に広まっているのはグローバル化に伴う、均一化した情報社会(ネットワーク)が複数の先進的な地域に立ち現れていることを示すものであると同時に、それぞれの地域の食文化との接触のなかで、同時に様々なローカル化を進行させている。
 スシの流行と定着は今後も都市地域にとどまるものと推測されるものの、スシはそれぞれの地域の伝統的食文化を駆逐することなく狭間に入り込みながら生き延びることが出来る食品であり、ハンバーガーなどのファーストフードに代わってスシがファーストフード界の覇権を握る日が来ることも、まああり得ない話ではないだろう。
 そして「ブラジルのスシ」が日本や米国などの先進地域に進出を遂げていくこともやはりあり得ない話ではないのである。

 もりこういち◇明治大学大学院卒業後、カンピーナス州立大学大学院を終了。サンパウロ人文科学研究所所長などを経て、現職。日系社会に関するレポート、著書多数。

あなたの知らないヤキソバ──似て非なるものからの脱出=細川多美子(BUMBA編集長)

 サンパウロ近郊の小さな地元文協で百周年の祝賀会があった。先達とブラジルへの感謝を捧げながら、皆で祝うことを意義として、普段文協に参加してない人たちも招待した。
 当日までどれだけの人が集まるのか全く不明で、主催者は何人分の食事を用意したらよいのか不安のままに開会した。入口に用意された出席者の記帳ノートに次々サインする一世、二世、三世、主催者に挨拶をしながら封筒を差し出す。「ご祝儀」と書いてある。 日本人というのは律儀な民族だと改めて思ったが、熨斗袋がただの封筒に簡略化され、そこには形式よりも心意気が残ったという感じに好感を抱いた。
 同じように告別式に「ご霊前」を用意してくる人たちがたくさんいることにもその都度驚く。 個人的にはできれば忘れたいしきたりだと思う自分の不届きさを恥じつつ、日本人の習慣には美しいものがあり、それをいまだ貫いている心には少なからず感動する。日本人ってなんていい人たちなんだろうと思う。
 お中元やお歳暮はブラジルでは廃れたようだが、これは元々あまり意味がなかったからかもしれないし、誕生日やクリスマスのプレゼント交換に代わってしまったのかもしれない。 日系社会の文化にはこの百年で消えたものと残ったもの、変質したものと新しく生まれたもの、境界をあいまいにしながら、だいたいこの四つが存在しているのではないかと思う。
 そもそも日本人のよいところって何だろう。ここ一年のイベントは日系社会が主役だったので、非日系ブラジル人の演説には常に日本人へのヨイショが多分にあった。
 そのへんはブラジル人の得意技(日本人には苦手な技だ)なので、マにウケルわけにはいかないが、主にほめてもらった点は、「規律正しい」「勤勉」「誠実」「農業、経済を発展させた」、そしてその正しい解釈はさておき、お決まりの「ジャポネース・ガランチード」。
 いつからそれらが定説になったのか改めて不思議に思うほど判で押したような評価だ。それは「伝統的な私たちの誇り」だと思ううれしさの反面、もう五十年も六十年も同じことを言われ続けているとしたら、どこか変なのではないかといぶかしい気持ちにもなった。まるで成長がないようにも聞こえ、長所にもカビがはえているような印象だ。
 一方、日本からブラジルの日系人を見たときの「今の日本にはない良さが残っている」という感想も、日系社会が日本から取り残されたおかげで良きものが残されたというような高みのニュアンスを感じるせいか、私の心の隅にはちょっとした憤懣の煙が立つ。
 これについてはすでに五十年以上も前に怒りの論争が起こったようだが、なぜか最近は「明治の日本を見たければブラジルへ行け」を褒め言葉に使って疑いをもたない場合が多い。そこが腑に落ちない。
 「自分たちは変わっちゃったけどさー、ブラジルの日系人は変わってないんだよねー」といわれて褒められた気はしない。褒めてるか貶してるかはさておき、だいたいブラジルの太陽の下に何十年も過ごして明治の日本がそのまま残ってるわけがない。
 だからここのところは、良い日本性がブラジル的良さにもまれてよりよい方向に磨かれたと考えたい。その良さは今の日本から〃失われてしまった〃のではなく、そんなものは〃始めからなかった〃。
 ブラジルの風土の中で初めて進化した。だから際立ってよく見えて当然。というとなんだかすっきりする。
 文化も人間も生きている。生きていれば進化、あるいは退化、少なくとも変化し続け、同じではいられないはずだ。
 百年の中でいろんなものがブラジル化し日本化したのだと思うが、最近便利だと思うのは、主に日系社会が推進役として、ブラジル人の目を通した日本性も作用しながら、和風をとどめて変化したものを「日系文化」と呼んで、「日本文化」と一線を画すようになってきたことだ。
 日本で焼きそばといえばソースだと思っていたのが、ブラジルでは主にあんかけか醤油味、日系文化であることを確立すれば、いちいち「えーっ、日本と違うー」などと言われなくてすむ価値観変換ポイントになる。
 今やブラジル人の手にかかるヤキソバは、ブラジル全国北から南まで各地で勝手に変質しており、ダイナミックに多様化している。 しかしこの日系文化の形成は、多くの場面でまだ非常にあいまいで担い手も受け手も修行が足りないといわざるを得ない。花ニラを生け花風に花瓶にさしてあるのは和風といえば和風だが臭いし、着物にインスピレーションを得たドレスが左前なのには目を伏せたくなる。
 そこを乗り越え、一瞬まゆをひそめる勘違いもユニークな発展形ととらえ、未知のものには畏敬の念を持ち、広い心で今後の進化に期待したい。
 百周年のおかげで、さまざまな展覧会やイベントなどに、その変化のありようがつぶさに見られるのが大変楽しい。

ほそかわたみこ◇ブラジル文化を探るため来伯して早や二十年。日本を離れてみると、ブラジルでの日本文化も気になってしょうがない。編集長を務める「BUMBA」は、日本語でブラジルの自然と文化を伝える情報雑誌。

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