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コチアは海外開拓の大記録=寄稿=下元健吉の遠戚、雅夫氏=本紙連載に感想寄せる

ニッケイ新聞 2009年3月3日付け

 大阪府在住の下元雅夫さんは、故下元健吉氏(旧コチア産業組合専務理事)の遠縁にあたり、終戦当時には下元氏の実家に一時疎開するなど、少なからぬ縁のある人だ。そこは大邸宅だったが、今では石垣作りの屋敷のみ残っている。そこから百五十メートルほど離れた所に従妹の下元敏(85)さんが住んでおり、雅夫さんが電話した折、健吉生誕地として記念碑を作ったと語っていたという。雅夫さんは松下幸之助に辞令をもらい、一九六〇年にニューヨークに駐在し、五人の日本人でアメリカ松下をスタートしたひとり。外山脩氏の連載をインターネットを通して読み、企業人らしい視点から次のような親戚としての熱い想いを送ってくれた。(編集部)

 ニッケイ新聞社に掲載された「コチア産業組合・新社会建設の創立者・下元健吉氏の没後五十周年」を読ませて頂き大変感動致しました。私は七十歳で、健吉氏の遠縁にあたります。
 終戦当時は国民学校一年生でしたが、空襲を逃れ健吉氏の故郷である半山村駄馬に疎開しました。
 子供心にはお名前とブラジルへの移民しか記憶がなかったのですが一九六一年にニューヨーク駐在の頃、評論家の大宅壮一氏がブラジルを訪問した時に書かれたコチア産業組合と下元健吉の本を読むことができブラジルに関心を持ちはじめ、現在はインターネットで時折ニッケイ新聞を拝読させていただいておりました。
 本年二月、外山脩氏(フリージャーナリスト)の百周年特別企画を読ませて頂く機会に恵まれました。
 ブラジルに渡り、皆様が死にものぐるいで働きつづけた生涯を詳しく知ることが出来まして大変感謝いたしております。
 下元健吉氏は一九一四年(大正三年)十八歳で、飛行機も電話も無い時代に神戸港を後に、蒸気船で、シンガポール(日本から六千キロ)、南アフリカの喜望峰を回って大西洋に入り、万里の波濤を越えて、広大な新天地での成功を期してブラジルのサントスに上陸したものと思われます。
 現在なら飛行機で三十時間余りで行けますが、当時の汽船では速度も遅く、数カ月をかけて二万キロほどを、現在では想像を絶する船旅であったであろうと推測されます。
 到着したサンパウロは、広大な土地であったかと思いますが、農作物の耕作が出来るようになるまでには苦難の道と厳しい日々の暮らしであったと思います。
 移民した人々が一九二七年(昭和二年)にコチア産業組合を設立し、その後三十年間にコチア産業組合の組合員・家族・職員が約四万人の大組織に発展したことは、日本の海外開拓史上の大記録であると思います。
 今日、日本の産業がブラジルは勿論のこと、USAやアジアの諸国に展開していますが、一国内で単独の企業が一万人を超えることはほとんどなく、日本企業全体でも三万人以下ですが、一九五〇年代までにコチア産業組合が四万人の大組織に発展していたことは驚異的な発展ぶりであると思います。
 太平洋と背後には四国山脈の尾根に囲まれて育った下元健吉氏は、ある面では強引な性格であったようですが、又一面では猫が好きなように、やさしさを持つ良き親父でもあったようです。幼少の頃から厳しい自然環境の中で育ったことが仕事に対する執念とやる気が大組織へと発展したのではないかと感じます。
 外山脩氏の二十一回の連載には、コチア産業組合・新社会建設に携わった多くの人々の人名が詳しく記されております。これ等の人々の親族の方々もこの連載をご一読されたらとも思う次第です。
 今日、リーマンショックを機に世界経済が急速に悪化しておりますが、世界で唯一明るい話題に元気づけられるのがブラジル農業です。
 先日NHK報道番組でブラジルの砂糖きびから生産される〃エタノール〃が中東のガソリンに代わり世界経済を変えている状況が報道されました。
 国民・役人が総力を挙げて〃エタノール〃の生産に励み、農業を基盤に発展し続けている様子が報道されました。そして、アフリカにも技術移転をしているとのこと。これからの、世界経済を支えるのはブラジルであり、広大な農地で生産できることに大きく貢献したのはブラジルへ移民した皆様の賜であると強く感じた次第です。
 百年前の開拓時代から今日まで、ブラジル農業を礎に新たな百年に向かってさらに大きく発展できるものと信じます。
 末筆ながら、外山 脩氏(フリージャーナリスト)の詳細な執筆のご努力に心から厚く御礼を申し上げます。

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