ホーム | 日系社会ニュース | コチア青年55年=花嫁移住51年=青年・花嫁助けた山中家=一次一回は12人が集合

コチア青年55年=花嫁移住51年=青年・花嫁助けた山中家=一次一回は12人が集合

ニッケイ新聞 2010年9月22日付け

 【既報関連】コチア青年移住55周年と花嫁移住51周年を祝う記念式典が19日、サンロッケ市の国士舘センターで開催された。55年9月のあめりか丸で海を渡った109人から始まったコチア青年の歴史。当日の会場には、歴史を切り開いた一次一回の移住者をはじめ、青年・花嫁ゆかりの人達が参集した。
 同移住事業の生みの親、下元健吉コチア産組専務理事、荷見安・全国農業協同組合中央会長とともに壇上に写真が飾られていた故・山中弘氏。コチア産業組合移民課長として数多くの青年の世話をした。式典では夫人のキクさんに感謝状が贈られた。
 夫を支え、また自身も青年や花嫁たちのよき相談相手になったキクさん。感極まった様子で感謝状を受け取った。
 本人に代わり挨拶した息子の理イジドロさん(75)は、「青年制度が始まるということで、頑固親父に『君も手伝わないといけない』と言われ、14、5歳の高校生の頃から弟(晋氏)と手伝った」と回顧。
 船がリオに到着するとサントスまで同行し、税関の手続きなどを説明したという。最初の花嫁が到着した時は、青年が借り物の背広でサントス埠頭に並んでいた。写真でしか知らない花嫁たちが、真っ黒に焼けた青年の中から夫を探す姿を見て「たいへん驚いた」という。山中さんは青年らの成功を喜ぶとともに、「日本人の文化を二世三世に伝えてほしい」と話した。
 10月に満100歳の誕生日を控えるキクさん。イジドロさんによれば当時、週末にはブタンタンの自宅を花嫁らが訪れ、悩みを相談したり、子育てや学校の相談などをしていたそうだ。「にぎやかでしたよ」
 山中氏はまた、精神を病んでしまった青年のためにイグアッペに農場を購入し、滞在させることもした。そこでの生活を経て病を癒して社会復帰していった人もいたという。
 山中氏の部下として55年の一次二回から4年間移民課に勤めた藤田繁さん(81、東京)も式典で感謝状を贈られた。ブラジルに着いた半世紀前の青年の姿を「これからどんな目にあうのか、興味津々な様子だった」と思い出す。「パトロンと上手く行かない人や、農業経験のない人もいたけど、定着した人は真面目にやって地方の農業で指導的位置にいる人も多い。色々なことがあった」と語った。
   ▽   ▽
 式典会場では、あちこちで数十年ぶりの再会を喜ぶ人達の姿があった。
 「49年ぶりですよ。懐かしいですね」と満面の笑顔を見せるのは、ミナス州バルジーニャ在住の佐藤修司さん(70、二次十二回)。旧神戸移住センターの改修工事で見つかった落書きの張本人だ。同船の菱沼利昭さん(69)とは渡伯以来で会ったという。
 カストロに配耕された佐藤さんは農薬で体調を崩し出聖。青年の間ではその後49年間〃行方不明〃だった。「船内で仲が良かったけど、その後ずっと連絡がなくてね。恨んでましたよ」という菱沼さん。「でも今は立派な子供もいて、会えて良かった。今度遊びに行くよ」と喜ぶ。同じく同船の益田照夫さんとも再会を果たし、笑顔を見せていた。
 コチア青年の第一歩を踏み出した一次一回の若者たちも、今では喜寿の年。式典の日は12人が集まり、旧交を温めた。
 その一人、蓮井清朗さん(79)はサントアマーロからイタチーバでバタタ栽培を手がけ、現在も同地に住む。
 「苦労の連続。そんなに甘くなかった」と自身の55年間を振り返りながら、「自分でも溶け込む努力をしたけど、住めば都。ブラジルは良いところですよ」と話す。「サントスで別れてから初めて会った人もいた。皆元気で良かった」と笑顔を見せた。
 祝賀会で自作の「コチア青年鶴亀音頭」を歌った荒木滋高さん(78)も一次一回。義務農年後、59年からブラジリアへ移った。
 移った当時はまだ遷都前。サンパウロからの道もできておらず、建設中の首都ではクビシェッキ大統領が「長靴をはいて陣頭指揮していた」という。「昔はどんな田舎道でも誰かとすれ違えば『ボンジーア』と言い合ったもの。いい所だなと思いましたよ」
 一次一回の青年は今も3人が同地に暮らす。「一番古いけどまだ元気ですよ」と笑い、「55年はあっという間。感無量です」と話していた。

image_print