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花嫁移民=海を渡った花嫁たちは=滝 友梨香=42

 もとは日本食の恋しい一世達に、饂飩や丼物を食べさせる店だったことから、「料亭」と呼ばれるこの規模に成功したとのことである。
 わが客になってもらいたい仲居さんたちに会う前に、女主人に挨拶するため、別室に案内されて話をしていたときの事だった。
 「あなた器量も良いし、関西弁だし、良い客が付くわ。今のあなたの稼ぎは幾ら? たいしたこと無いでしょ。そんなのここでは一晩で稼げるのよ。今日このままここにいて、お座敷を見なさいよ」と言って私を離そうとしない「料亭青柳」の女将の顔を、私はただ見詰めるばかりだった。
 しかし、頭の中では料理好きな私は「ブラジルの料亭と日本料理を見られる良い機会だ」と、仲居をしてみようという気持ちに程遠く考えていた。ブラジルに来たのは成り行きだったが、私は何しろ好奇心が強くて海を渡ってしまったとも言える。
 料亭青柳のあるジャバクアラ区は、市内のセー教会から二十キロ近く離れた所だが、昔はかなりの山の中だったと思う。
 一八八八年五月十三日、皇太子妃イザベルによって奴隷解放令が発布されるまで逃亡奴隷の隠れ里であり、パードレ・アンシェッタが彼らを匿ったとサンパウロ史に書かれている。またジャバクアラとは原地人のツピー語で「岩・穴」であり不毛の地の意味だと言う。その後「逃亡奴隷の森」と呼ばれるようになったそうである。
 ついでに書けば、ブラジルの奴隷制廃止は、この国の北東部の砂糖生産停滞と南東部のコーヒー生産に大きな影響を及ぼしたため、解放された奴隷の代わりとして外国移民を導入し始め、この奴隷制廃止二十年後に、日本の移民船「笠戸丸」が、農業契約移民七八一人(一六五家族七三三名、独身者四十八名のうち自由渡航者十二名)を乗せて、一九〇八年四月二十八日神戸桟橋を出航し、同年六月十八日サントス港に接岸した、この日が「日本移民記念日」とされている。

 ジャバクアラ区は、現在は地下鉄の終始発点になっており、サントス港方面や市外へのバスと連携して、庶民の大きな足場になっているが、現在でも高級住宅地とはいえない。料亭青柳はその地下鉄駅とは逆方向の少し離れたところにあり、当時はかなり静かな場所であったと思われる。
 私がここを初めて訪ねた一九六七年当時、この料亭の最盛期は過ぎていたかも知れないが、まだ衰退していたとは言えなかった。この後も四百キロ離れたキロンボ(このキロンボもまた逃亡奴隷の隠れ里とのことである)温泉から湯を取り寄せて、料亭内でバタテイロ達(ジャガイモ成金)を楽しませていると聞いたことがある。そしてバタテイロこそが料亭青柳を支えていた大もとであったと言える。
 一九〇八年の笠戸丸移民から十年~十五年後頃から、バタタ(ジャガイモ)は焼き畑農業で山を焼いては、土地を替えながら作付したそうで、日本で言う青枯れ病(ムッシャデーラ)が連作を妨げ、二作目は出来ても三作目は作れず、次の山を焼き、次の山を焼きと言う具合に、ジャガイモ農場を作ったそうで。新しい土地でも九九パーセントは病菌にやられることがあったという。現在サンパウロ州ではトウモロコシなどと輪作でわずかにジャガイモを作っているが、多くはミナス州やパラナ州で作られているとのことである。
 バタタ作りはその年あたれば成金が誕生し、あり余るお金の使いどころが料亭青柳だったという。

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