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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(19)

しかし、匙を投げる

 安瀬は、その頃、自身のカフェザールを四カ所経営していた。樹数は計85万本だったというから、この業界でも大手だったわけだ。そのカフェザールの経営力は世間から高く評価され、ブーグレの再生に関しても期待されていた。
 ところが牛窪著によると、この安瀬も霜に破れ去ったという。ブーグレは1959、1963、1967、1968年と降霜に見舞われた。これでは、如何に年季の入ったカフェザール経営者でも、どうにもならない。流石の安瀬も匙を投げた。当時の安瀬を知る在アラサツーバの一老人は、
 「安瀬さんは1960年代、所有していたカフェザールを次々と売っていた。残ったのはカフェーの精選所、精米所くらいだった」と思い出す。
 売って得た資金を南銀に出資し、ブーグレへ注ぎ込んだのであろう。
 当時、彼は援協=日本移民援護協会=の初代会長など公職を幾つか務めていたから、そちらでも資金が必要であったろう。が、団体の性格上、それほど巨額な資金を個人で注ぎ込むことはなかった筈である。あれば話題になり記録に残ったであろう。
 安瀬はブーグレには、日本から、戦後移民240家族を導入した。このファゼンダを、彼らがブラジル式農業を身につけるための修行の場にしようとしていた。が、長くは続かなかった。
 その240家族の中には郷里の人間も居たであろうが、資料を欠く。アグア・リンパの自分のファゼンダに入れたことは記録に残っている。若き日の志の実行であった。が、その多くが出てしてしまったという。
 ブーグレは結局、ミゲール・ペテリリというこの地方の資産家に売却された。
 ここで、ブーグレというファゼンダを冷静に見直しておく必要がある。ブーグレの造成開始は1910年代である。その土地は先に触れた様に「40年間無肥料で持った」という伝説もあった。が、仮にその通りだったとしても、1950年代が40年目に当たる。
 ということは、ブーグレは南銀の手に渡った時、地力は尽きていたことになる。非日系のファゼンデイロは、旧来の略奪農法を続けており、土地に肥料を入れて地力を回復させるということはしなかった。それよりも新地を求める方が楽だったのだ。
 安瀬は、ノロエステ線の自身のカフェザールには、肥料を入れていた。それが実は、彼の経営のコツであった。安瀬はブーグレでも肥料を入れ、回復を図ろうとした。しかし、地力が衰えきった広大な土地である。時間がかかる。その間、次々と霜が襲来した。抗しきれなかったであろう。
 なお『南銀五十年史』には、牛窪説とは違う記述がある。が、内容に現実感が伴わないので、ここでは略す。
 安瀬盛次は、1971年、上野米蔵と同じ78歳で鬼籍に入った。晩年は衰弱著しく、援協に寄った時、トイレで自分では用を足せず、人に手伝ってもらった──という話を、筆者は、その手伝った当人から聞いたことがある。心労が重なって健康を害していたのであろう。
 私財であるカフェー精選所や精米所などは遺族が引き継いだ。が、地元の人の話では、これも、その後、いつの間にか操業を終えていたという。


松原武雄、死の淵からの飛翔

 ブーグレを南銀から買いとったミゲール・ペテリリも、1972年、負債を抱えて投げ出した。ために債権銀行によって競売に付された。その競売場で、北パラナの邦人たちを、アッと言わせる変事が起きた。一人の日本人が現れ、激しい競合いの末、落札してしまったのだ。しかも、この男、大昔、少年時代にブーグレで働いていたという。その少年が長い艱難辛苦の歳月を経て、実に半世紀近く後、ブーグレを我が物にしたのである。これも昔の立志伝の様な話である。男は松原武雄という岡山県人であった。
 松原武雄は1917(大6)年の生れで、1925年、両親や姉妹とブラジルに渡り、移民会社によってブーグレに送られた。8歳であった。ブーグレに着いた時、この少年は極度の不安に襲われていた。両親に、はぐれてしまったのである。彼は両親や姉妹と一緒に、サンパウロの移民収容所から、汽車でオウリーニョスまで来て、そこで荷物と一緒にカミニョンに積まれ、運ばれてきた。
 カミニョンは労務者用の小さな板小屋の前に停まりながら、一家族ずつ、荷物と一緒に降ろして行った。
 少年は、自分たち家族に割り当てられた小屋の前で、荷物と一緒にカミニョンを降ろされた。13歳の姉も一緒だった。ところが両親は降りて来なかった。幼児の妹も同じだった。カミニョンには乗っていなかったのである。姉は荷物に腰を降ろしてシクシク泣き始めた。少年は「きっと後から来るよ、駅には一緒に降りたンだから……」と、励ましながらも、歯をカチカチ鳴らして震えていた。
 翌日になっても、両親は現われなかった。少年は恐怖で気が狂いそうになっていた。言葉も判らない遠い異国で、頼りの両親が居なくなってしまったのだ。翌々日になって、両親は未だオウリーニョスに居ることが判った。幼児が高熱を出したため、医者の所へ行っていたのだ。その知らせが届いた時、姉は感極まって泣き出した。数日後、両親は幼児を抱えてやってきた。少年は母親に抱きついて、大声で泣きわめいた。

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