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灯ろう流し、二宮金次郎像、富士山と鳥居

左から竹内さん、野口さん、佐々井さん

左から竹内さん、野口さん、佐々井さん

大庭貞夫・春江夫妻

大庭貞夫・春江夫妻

 「あれは、1949年11月29日だった。あちこち旅行して、最後にうちのペンソンで自殺したんです。今西ケイタロウという人でした。父も同じ日蓮宗だったので、翌年のお盆、彼を弔うために灯ろう流しを始めたんです」。6月26日、リベイラ河沿岸日系団体連合会創立10周年の折りにセッチ・バーラス会館を訪れ、何気なく後ろの方に座っていた人に話を聞いたら、今年で第62回を数える伝統のレジストロ灯篭流しの原点を作った張本人だったので驚いた▼それは、セッチ・バーラス生まれの佐々井信良さん(75、二世)。佐々井家の個人的な催しとして、板に蝋燭をのせて流したのが最初だ。日蓮宗信者が多かった川下のレジストロに1954年から移されて本格的な儀式となり、現在まで続く▼佐々井さんの父石蔵(いしぞう)さんが1935年から経営していたペンソン「セッチ・バーラス」は当時、日本人旅行者にはなくてはならない宿だった。道路がなく、川蒸気船だけが唯一の交通手段の時代なので桟橋のすぐ脇にあった。「今でも建物が半分だけ残っているよ」と笑う▼その隣にいた竹内パウロさん(77、二世)は「僕はサンパウロ市生まれだが、両親が紅茶を作るためにセッチ・バーラスに1940年に来て、それからずっと住んでいる」という。移民百周年を記念して建て直された新会館を誇らしげに見あげながら、「昔の会館は1950年に建てられ、二世クルベ、日本人会、日本語学校、皆ここを使っていて賑やかだった。40家族以上いたよ。今はデカセギで若い人はほとんど日本。残っているのは指で数えられるほど」と寂しそう。遠藤寅重会長の尽力で建てられた新会館の入り口の壁には、大鳥居の向こうに茶畑、富士山が浮き彫りにされた立派な壁画がある▼野口登さん(79、ビリグイ生まれ、二世)も「お茶を作りに、55年にここから20キロのフォルモーザに来た。60年代の紅茶景気の頃は、皆こっちに向かった。あの頃が一番日本人多かったね」と往時を懐かしむ▼リベイラ連合会が地域再活性化をする中で07年に新しく生まれたパリクエラ・アスー文協の会長、大庭貞夫さん(80、バストス生まれ二世)と妻春江さん(80、二世)とも会った。貞夫さんは同地に転住して15年、それ以前はサンパウロ市で富士フィルム勤務だった。「イグアッペ、カナネイアによく釣りをしに来ていて気に入ったので、定年を機に移った」という▼「サンパウロでは憩の園を手伝い、アニャンゲーラ日系クラブに出入りしていた。そんな日系団体をここにも作りたいと思った。最初は4、5人の集まりだったが、今は20人ぐらいになった。いつか会館を建てたい」と意欲を燃やす▼そんなパリクエラ・アスーには、知られる限りではブラジルに二つしかないと言われる二宮金次郎像がある。一つはサンパウロ市の文協で神奈川県から運ばれたもの。もう一つが同地。大庭さんは「エンブ―の芸術家に金次郎像の写真を持って行って『同じものを作ってくれ』と依頼した。二宮金次郎は貧乏だったが勉学に励んで立派な人になったと、親から聞いていた。移民百周年記念事業に相応しいと思い、08年に作ってもらった」という。バステンセらしく流ちょうな日本語だ▼灯ろう流し、二宮金次郎像、富士山と鳥居――「こんなにニッポンが溢れたブラジルの田舎町が他にあるだろうか」と深く感じ入った。五輪で来る日本人観光客にもぜひ知ってほしいブラジルの一面だ。(深)

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