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恩人の汚名雪ぎ、百年後に顕彰

父・要が福博村の土地を購入した日の日記を読み上げる大浦文雄さん

父・要が福博村の土地を購入した日の日記を読み上げる大浦文雄さん

 「恩人の汚名を雪ぎたい」――サンパウロ州スザノ市のバルエル教会100年祭の開会式で24日、ビアンキ家に感謝状を渡した福博村会(上野ジョルジ会長)の大浦文雄顧問(92、香川県)の心の裡には、冒頭のような強い想いがあった▼というのも、東大の泉靖一助教授(当時)らによる研究書『移民―ブラジル移民の実態調査』(古今書院、1953年)には、福博村の創立者・原田敬太さんと、彼に土地を分譲したロベルト・ビアンキ氏は共に「高利貸し」だと断定的に書かれているからだ▼東大教授ら研究陣が書いた権威ある論文だけに、そう名指しされることは後世に憂いを残す。当日ビアンキ家に渡された記念プレートには、「百年経っても村民は感謝している」という事実を明らかにすることで、恩人の汚名を雪ぎたいとの想いが込められていた▼特にビアンキ氏は名指しで《ビアンキと称するイタリア人の商人は、これらカボクロに商品を高く売りつけ、高利子の金を貸してその代償に土地をとりあげる方式で次から次へと土地を集中して行った。彼はまさに典型的な商人、高利貸であった》(290頁)と書いている▼さらに創立者である原田氏に関しては「H氏」と名指しこそ避けつつも、ビアンキ氏の土地売りの手伝いをし《自分の計画のもとに日本人の一集団地を作ろうと努力した》と事情に明かる人には分かる書き方で《彼は商人であり、高利貸であった》と断言した▼大浦氏は「この部分を書いた大野盛雄氏は最後は東大名誉教授にまでなった人。彼が1981年に福博を再訪した際、僕は『あの部分は僕の認識と違う』とやんわり批判すると、『実は私もそう思う』と認めた。でも訂正することはなかった。二人は福博の恩人。そのままにして置くわけにはいかない。今回の顕彰にはそんな意味もある」と説明した▼大浦さんの自宅書斎は、まるで史料館のような趣がある。水野龍の笠戸丸航海日誌のサントス到着の1908年6月18日の頁、原田敬太が福博村に入植した1931年3月11日の日記頁、父・要(かなめ)が福博村の土地を買った1935年6月24日の日記頁が拡大コピーされて額に入れて、並べて展示されているからだ。他に誰も読めない原田敬太の達筆をスラスラと読み下しながら、「これは日本移民の歴史だが、私の歴史でもある。繋がっているんだよ」と頷く▼ビアンキ氏が1935年に日本語学校に土地とレンガ1万個を寄付した一事をとっても、利益最優先の「高利貸し」にはない発想だろう。大浦さんはその学校の2期卒業生。3期生が戦前最後の卒業生となった▼というのも、1938年12月25日にヴァルガス独裁政権の強権によって、全伯に476もあった邦人小学校は全部、強制閉鎖された。当時のブラジル時報紙は「運命の日」と報道した。これを境に、翌1939年に欧州で第2次世界大戦が始まった前後から日本への引揚者が続々と出る。41年7、8月には全日本語新聞が強制停刊させられ、「暗黒の時代」に入っていく▼敗戦で意気消沈した一世に対し、大浦さんら準二世はなにクソという青年の気概にあふれていた。勝ち負け抗争の最中の1947年、大浦青年はスザノ官憲の黙認までもらい、日本語学校をいち早く再開した。「子供移民、準二世が、一世とブラジル社会との橋渡し役になった。その果たした役割はもっと評価されていい」と強調する。終戦直後に、いったんは否定された日本文化、日本語。それが徐々に復活していく過程には、準二世たちによるブラジル社会との仲介は無くてならないものだった。改めて、そのことを心に刻んだ一日だった。(深)

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