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日系社会のドンキホーテ

誰よりも日本を愛するが、11歳で移住して以来、一度も日本の土を踏んでいないという上新さん

誰よりも日本を愛するが、11歳で移住して以来、一度も日本の土を踏んでいないという上新さん

 「ほら、奥に建物が見えるだろう。あれが日本人学校だった。でも僕は一度も入ったことがない。入れないんだ。戦争で接収され、ずっと陸軍が使っているからだ。でも、いつかコロニアに返されないといけない。あれが帰ってこないと、コロニアの戦後は終わらない。だから、あんた、そのことを記事に書いてくれ」▼コラム子がブラジルに来たばかりの1992年頃、上新さん(福岡県、94)にサントス旧日本人学校の敷地入り口まで連れて行かれ、そう言われたことを今でも覚えている。軍の施設であり、写真撮影さえ憚られる緊張した雰囲気があった▼上さんは当時、サントス日本人会の第7代会長として返還のために奮闘していた。返還に必要な書類集め、法的な手続きをほぼ整えた2003年に、後任の遠藤浩さんに会長を譲ったという。その後、06年にルーラ大統領が建物の使用権を譲渡する書類にサインし、今回ようやく土地も含めた全面返還となった▼今思えば上さんは軍政後期から民政移管後にかけて、泣く子も黙る陸軍に、邦字紙や日本人会機関紙を使って「日本語の紙つぶて」をコツン、コツンと根気良く投げつけていた。向こうにしてみれば、投げられたことすら気付かなかった。でも、いつの間にか時代の方が変わって、軍政時代のあり方を告発するのに熱心なPT政権になり、一気に進んだ▼数年前まで上さんは時々電話をかけてきて、「あんたが忙しいのは分かっているが、たまにはサントスに来んかね」と誘ってくれた。「行かなきゃ」と思いつつもズルズルと先延ばしに…。ドキュメンタリー映画監督の松林要樹さんに上さんを紹介した手前、「今度こそ」と一緒に尋ねたのが9月7日だった。昔のハキハキした感じこそなくなっていたが、元気そうな顔をみてホッとした▼上さんは1933年に両親に連れられて11歳で渡伯。姉が戦前にサントスに嫁ぎ、強制立退きさせられた。戦後、姉はサントスに戻り、それを頼って上さんも56年に移った。「当時は戻って来た人がたくさんいた。着の身着のままで24時間以内に立退きでしょ。みんな悔しがっていた。中には夫が沖に漁に出ている間に家族が強制立退きになって、数年間お互いの所在が不明だった人も」。まったく残酷な話だ▼上さんは「いつまでも日本人は日本人だ」という気持ちで日本語教師をし、返還運動をしていた。自宅の書斎には終戦直後、バストス近くの植民地でこっそり発行していた機関誌「アンデス」がしまわれていた。見れば手書きのガリ版刷り、内容は勝ち組雑誌だ。それを見て納得した。勝ち組だからこそ、損得勘定すればバカらしくなりそうなこの運動を、信念で貫き通してきた▼上さんはそれだけ強い日本精神を持ちながら「一度も日本に帰ったことがない」といった。「なぜ?」と尋ねても本人は答えない。奥さんはこっそり「昔は金儲けしないでは帰れなかったんですよ」と教えてくれた▼松林監督はすでに10人ほどの強制立退き被害者の証言を録画した。日本移民6500人が大戦中に強制立退きさせられた事実はあまりに重い。ブラジル史、いや近代日本史においても重大な事件だ。事件の衝撃が強すぎたがゆえに、当地では戦後70年間も正史で扱われてこなかった▼特に軍事政権中は、その歴史を掘り起こすこと自体が政権批判につながるとタブーになっていた。上さんは、そんな陸軍に対して「旧日本人学校を返還せよ!」と紙つぶてをぶつけ、「平和的なゲリラ戦」を展開してきた。当地を知るものならその無謀さ、実現可能性の低さが分かる。まさに「日系社会のドンキホーテ」だった。返還された今だからこそ「間違いを二度と繰り返さない」という意味において、この歴史を残す必要を感じる▼松林監督には必ず作品を完成させてほしい。そして来年8月、それを放送してくれるテレビ局に出てきてほしい。NHK・BSなどにふさわしいテーマでは。松林監督が証言を記録した人々の大半が90歳前後。彼らが存命のうちにぜひ公開を―と切に願う。(深)

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