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水野龍を巡る二つの講演=知られざる功績と航海日誌秘話=(中)=移民史の盲点カフェーパウリスタ

カフェーパウリスタ箕面店の開店を告げる大阪朝日新聞1911年6月24日付広告(若林さん講演資料より)

カフェーパウリスタ箕面店の開店を告げる大阪朝日新聞1911年6月24日付広告(若林さん講演資料より)

 水野龍は笠戸丸移民を連れてきた1908年に、コーヒー普及を目的とした豆の無償提供を受ける契約を聖州政府と結んでおり、その期限が3年間(のちに5年延長)だった。その期限のギリギリ最後に箕面店が開店したことになる。
 この第1号店の建物は後に、隣接する大阪府豊中市に移築されて「豊中クラブ自治会館」などとして90年余りも使われてきたが、2013年10月に建て替えのために解体された。若林さんはその前に建物内部を映像記録として残した。
 そのほか、兵庫県の大阪よりにある西宮市に大正7(1918)年に、本庄京三郎がレジャー施設「甲陽園」を建設した際、そこにもカフェーパウリスタは開設された。同園は「東洋一の大公園」と銘打ち、遊園地、温泉、宿泊施設、映画スタジオまで内包する施設だった。若林さんは「本庄京三郎は経営者として、小林一三の影響を受けていた。だから同様にカフェーパウリスタを開設したのでは」と推論した。
 若林さんは「水野は関東大震災後にブラジル移住する前にカフェーパウリスタの権利を全部売っているが、それまで社長だった。それぞれの店舗は『カフェーパウリスタ』の名前を使いながらも、独立経営だったよう。1952年頃まで営業していた最後の店である神戸店は、途中でブラジルコーヒーと関係のない総合レストランのようになっていた。でも音楽イベントなどを通して関西の文化拠点として存在意義を保っていた」という。
 「この2日間、水野龍三郎さんの自宅を訪ね、ずっと話を伺ってきたが、やはり水野、小林、本庄の3人とも理想と哲学をもってビジネスをやり遂げてきた世代だという印象を受けた」とのべた。
 吹田市立博物館・館長の中牧弘允さんは論文の中で、《旧カフェーパウリスタ箕面店の「発見」は、(中略)ブラジル移民の研究からすれば盲点を突かれたような格好となった。また、コーヒーチェーン店のカフェーパウリスタは明治・大正・昭和前期の大衆文化を語るうえで重要な素材を提供している》(海外移住資料館、研究紀要第8号)と位置付けている。
    ◎
 もう一人の講演者はスザノ福博村会顧問の大浦文雄さん(92、香川県)。「水野龍展と私―その上を流れた時間と人々」と題して、1970年10月にスザノ市で開催した「水野龍展」や水野龍航海日記の由来や顛末について、「生きた移民史」さながらの体験談を講演した。
 当時、州政府がスザノ市に300メートルの長い陸橋が建設し、「日本移民を顕彰した名前を付けたい」との市長の要望を受けた大浦さんらは、「水野龍橋」を推薦した。同時に「水野龍展」を企画し、2万人が訪れる大盛況となった。
 当時、パラナ州都クリチーバに住んでいた水野龍の妻・万亀さん(まき)を訪ね、「航海日記をぜひ展示したい」とお願いしたところ、「本を書くために香山六郎さんが持っていかれた」との返事。さっそく聖市の香山家を訪ねると、ほとんど失明状態だったにもかかわらず、六郎はゴソゴソと史料の山となっていた戸棚から封筒を探し出してきて「あたらめてください」と差し出した。
 笠戸丸航海日記が初めて日の目を見た瞬間だった。(つづく、深沢正雪記者)

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