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《ブラジル》富山県移住の歴史の象徴=第三アリアンサ入植90周年=母県から副知事ら慶祝団

母県からの慶祝団を迎えた記念式典

母県からの慶祝団を迎えた記念式典

 サンパウロ州ミランドポリス市の第三アリアンサ移住地(富山村)は、『入植90周年記念式典』を15日に同会館で開催した。隣接する第一、第二移住地や当地の出身者ら500人以上が慶祝に駆けつけた。アリアンサ移住地は民間主導としてはブラジル初の大規模移住地だった。その第3移住地は、富山県海外移民協会と信濃海外協会により創設され、富山県人3家族11人の移住から始まった歴史を持っている。

 当日は開拓先亡者を偲んでしめやかに追悼法要が行われた後、日伯国歌斉唱によって式典は始まった。挨拶した第三アリアンサ日伯文化体育協会の嶋崎清会長は、「理想郷の建設に挑み、原始林を開拓した先駆者の苦労を思えば感慨無量。果樹栽培や牧畜業も不況の煽りを受けているが、活路を見出し努力していきたい」と語った。
 母県からは、山崎康至副知事ら5人の慶祝団が出席。石井隆一県知事の挨拶文を代読した同副知事は、「ここは富山県移住の歴史の象徴。今日まで移住地を残してきたことに心から感謝したい」とした上で、1978年以降、母県が日本語教師を派遣してきたことに触れて「新たな絆となり、互いの距離は縮まっている。共に手を携え発展していきたい」と語った。
 ミランドポリス市のレジナ・セリア・ムスタファ・アラウジョ市長は「先駆者から規律、組織、公正等の美点を引継ぎ、社会の発展に貢献してきた日本移民は、町の象徴だ」と称賛した。
 アフォンソ・カルロス・ズイン市議会議長、飯星ワルテル連邦下議、富山県人会の市川利雄会長、ノロエステ連合会の安永信一会長ら同地の日系団体代表者らが参席し、祝辞が相次いだ。
 引き続き功労者表彰と敬老表彰が行なわれ、富山県から金一封と記念品が渡され、日本語学校生徒によるダンス発表で会場を湧かせた。昼食会には富山県広報キャラクター『きときと君』が姿を現せて場内を和ませる中、一行は婦人会の準備した料理に舌鼓を打ち、旧交を温めた。
 聖市からバスで駆けつけた水上真由美さん(87、二世)は「かつて住んでいた場所を歩き、嬉しい時も悲しい時も思い出した。今回は末っ子も来てくれ、これで子供達全員が故郷を訪ねてくれた。私の役目もこれでおしまいね」と感慨深げに語った。
 同地生まれで現在も住む宮原力三さん(二世、84)は「久しぶりに大勢が集ってくれて嬉しい」と笑みをこぼすが、「村を出た若者は帰ってはこないし、大市場からは遠いから発展も難しい」と諦観を漂わせた。
 最盛期には200世帯を超えた第三移住地も現在はおよそ40世帯。時代の波に翻弄されるなか、なんとか互いに協力し合い村を存続させてきた。「次の10年を超えて百周年を迎えられるかどうか分からない、そんな不安もある。でも、自分はアリアンサで生まれ育った。だからここで骨を埋めたい」と村を守る気概を見せた。

 

いとしい故郷アリアンサ=母の愛を噛み締める大平さん

母に抱きかかえられたヨハネさん

母に抱きかかえられたヨハネさん

 サンパウロ市から式典に駆けつけたアリアンサ郷友会一行を乗せたバスが同地に差し掛かった午前6時半頃、朝日が空を赤く染め、赤い大地が地平線上に広がる幻想的な景色を見つめ、大平ヨハネさん(78、二世)は目に涙を浮かべていた。
 現地到着して一番に「見て欲しいものがある」といって差し出したのは、一枚の切り抜き記事―。1937年5月19日付の新愛知新聞には、『異郷の希望空し』と題打って、移民船リオデジャネイロ丸が香港に寄港中、乗降のために使われたランチ堂島丸のボイラー爆発により、死者34人を出した事故を報じていた。
 記事中には、行方不明者として大平さんの両親の写真が掲載され、おまけに「新妻と元気で行ったのに」との小見出しまで。あたかも両親が事故で亡くなったかのように報じられている。
 だが、これは誤報だった。ヨハネさんは「その時、母親は兄貴を身篭っていてね。つわりが酷くて下船できなかったんだ。そうでなければ事故に巻き込まれて、僕も生まれてなかったかも」と述懐する。危機一髪、難を逃れた。
 1939年にヨハネさんがアリアンサで生まれ、力行会でキリスト教徒だった父が使徒から名を貰って付けた。
 だが、まもなく一家を悲劇が襲う。42年に父親は27歳の若さで病死し、翌年に母親は再婚した。だが継父は肺炎を患い、48年にアリアンサを泣く泣く離れて、療養のために高原の地カンポス・ド・ジョルダンへ。でも継父はそこで病死したという。
 大平さんは「本当に母の手一つで育てられた。母は苦労に苦労を重ねて84年に亡くなった。『里帰りしたい』とか一言も言わなかった。だけど、死ぬ前に母国の地を踏ませてあげられなかったのが唯一の心残りだよ」と感慨深げに語る。
 第三移住地での生活は大変だったようだ。「母はマッチを半分に割って、使うのは一日に一本のみ。その火で風呂を沸かし食事を支度し、翌日の弁当まで準備していた」と苦労した母の姿を鮮明に記憶している。
 「日が昇ってかすかに空を赤く染める頃、母と兄は畑に出た。蛇が出て危ないからと籠に入れられていた自分は、草取りしている母と兄を見つめていた。それが今でもが忘れられないよ」としみじみ。懐かしい故郷の朝日に母を思い出し、注がれた愛情を噛み締めているようだった。

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