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黄熱病との闘いは移民史の一部

野口英世(1876-1928、[Public domain], via Wikimedia Commons)

野口英世(1876-1928、[Public domain], via Wikimedia Commons)

バイア州都サルバドールの「Laboratorio Prof. Noguchi(野口研究所)」壁面には漫画の野口伝が貼られている(写真=毛利さん提供)

バイア州都サルバドールの「Laboratorio Prof. Noguchi(野口研究所)」壁面には漫画の野口伝が貼られている(写真=毛利さん提供)

 世界保健機関(WHO)が16日にサンパウロ州を「黄熱病感染危険地帯」に指定したことで、一気に危機感が高まった。予防接種をうってもらおうとサンパウロ市保健所には前日から列ができ、テレビや新聞もその話題で持ちきり。だが、この病気は移民史においては最も身近な病気の一つであった。日本移民が開拓する中で戦った強敵の一つは、マラリアや黄熱病などの感染症だ▼例えば、細江静男医師は1939年、ブラ拓の依頼でノロエステ線の黄熱病調査のために、森の中で死んだサルの肝臓採取の仕事をし、その後、バストス移住地に帰った時に発病した。《バストスに帰って二三日してから身体が非常にだるく食欲もなくなり、立っても坐ってもいられぬほど、腰、背骨、関節が痛んできた》(『ブラジルの農村 病第一編』1968年、日本移民援護協会発行、PDF版354頁)▼さらに《毎日毎日三十九度、四十度の発熱、そのうち身体は真黄色になってしまった。世話をしてくれた相沢光三郎薬剤士は「多分死ぬだろう」と考えたという。熱は七日、八日で引いて逆に低温となった。食欲は全くなく絶食状態。ただ水をのむだけとリンゲル氏液を二五〇CCくらい、毎日血管注射するだけ。体重は十七貫(六三・七五キロ)から十二貰(四五キロ)にへり、大便は黒いのをたれながし、 尿はほとんど出ない。涙も汗もつばきも尿もみな真黄で、立っても、すわっても、ねてもいられない》(PDF版335頁)と壮絶な病状を、医者らしく科学的に自己診断する。だが本人は黄熱病だと分かっておらず、数年後にサンパウロ州立医科大学で熱帯病を学んだ際、「あれが黄熱病であったか」と気付いたと告白している。それぐらい当時は医学知識が普及していなかった▼だがその16年前、1923年に早々と黄熱病を研究しにブラジルへやって来た日本人研究者がいた。米ロックフェラー研究所の野口英世博士だ。同年11月からサルバドールのオズワルド・クルス研究所バイア支所で研究し、翌3月に帰米した。詳細は昨年1月17日付の毛利律子さんコラム「野口英世の足跡を追う」に詳しい。短期間に当地医学界に強い好印象を与えた。バイア連邦大学医学部の図書館玄関には、シャーガス病発見者にしてブラジル医学界の大御所カルロス・シャーガス博士、オズワルド・クルス研究所創立者である同博士のレリーフと並んで、野口英世が掛かっているという▼同連邦大学医学部のヴィアンナ・ジュニオル教授は野口を直接知る一人で、リオの出版社から伝記『Noguchi』を出版。野口はすでに世界的に著名な学者だったが、ブラジル人研究者にも丁寧に接した。《唇には日本人らしい微笑を常にたたえ、礼儀正しく、愛想がよく、(中略)注意深く、控えめで、ためらいがちで、恐ろしく勤勉だった》(49頁)と記す▼朝8時には実験室に入って忙しく研究を始め、昼に2時間ほど休みを取った後、午後7時まで研究を続けた。その後、毎日2時間のポ語の授業を受け、床に就くのは常に深夜になっていた(同47頁)と書く▼ブラジル時報紙1924年3月7日付に、野口は「教えにではなく学びに来た」との記事が掲載された。ブラジル人記者との会見では質問にポ語で応え、記者を驚かせた。講演は多くのブラジル人に感銘を与えたとある。野口英世は研究者である以前に語学の天才でもあった▼この『Noguchi』の本を持ってきたのは、笠戸丸移民を祖父に持つ元連邦警察署長の池田マリオさん。「子供の頃、お爺ちゃんからよく言われた。野口英世は蛍を集めて手灯りにして勉強した。お前もそれぐらい一生懸命やらないといけない」と思い出す。野口の学問が蛍雪の功であったか知らないが、左手の大火傷にも関わらず、ほぼ独学で医師試験に合格した苦労人だった▼「野口英世はたった3カ月しかブラジルにいなかったが、残した功績は大きい。当時の医学界のブラジル人は先を競って野口から教わろうとした。そんな有名人がコロニアでは知られていない。もっと日系社会にも知ってほしい」と熱く語った。先人の多くは黄熱病で斃れた。それを追悼する気持ちも忘れず、今回の危機にも焦らず冷静に対処したい。(深)

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