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《ブラジル》タブー破りが得意な歌手、井上祐見

21日に聖市で行われた歓迎会の様子

21日に聖市で行われた歓迎会の様子

 井上祐見(42、愛知県豊橋市出身)はタブー破りが得意な歌手だ。
 2007年8月に「井上祐見という不思議な歌手」という特別コラムで、《なんの商売上のメリットもないのに、彼女はかれこれ9年間もブラジルに通っている。しかも、マネージャーまで連れて、だ。ブラジルを中心に南米各地で公演を行っているが、すべて無料だ。交通費や宿泊代などの旅費諸々こそ、ブラジル国内の支援者が負担しているが、日本に持ってかえる営業的な利益はない。それでも、毎年やってきて1カ月間、たっぷり歌っていく》と書いた。
 プロとしてはタダで歌うのはタブーだ。最初からそれを破っていた。
 「NHKのど自慢」の番組収録が1998年に聖市で行われ、それを日本で見た彼女は、「こんなにたくさんの日本人のお爺さん、お婆さんがいるんだ。この人たちの前でぜひ歌いたい」と決心し、無謀にもその年からやってきた。
 当時デビューしたての21歳、初海外旅行がブラジル公演だった。
 彼女が凄いのは3年目に移民女性の心情を歌ったオリジナル曲『ソウ・ジャポネーザ』をひっさげてきたことだ。彼女から「いつか移民のことを歌った曲でアルバムを作りたい」という夢を聞き驚いた。
 たとえば、日本で本を出そうと原稿を東京の出版社に持ち込んでも普通は丁重に断られる。「移民モノや日系人モノは売れないんです」というのが決まり文句だ。
 まして栄枯盛衰の激しい歌謡界で移民モノが売れるとは思わない。
 百周年の時には『ありがとう笠戸丸』という2曲目も作ってきたので、「本気でアルバムを作る気か?!」とさらに驚いた。
 百周年までは毎年来たが、その後は来たり来なかったり。メリットもないのだからムリもない。
 唯一のメリットを探すとすれば、中嶋年張マネージャーが言っていた「彼女の知名度では日本国内の営業で30分間歌えばいいとこ。でもブラジルではたっぷり3時間も歌わせてくれる」という言葉だ。
 歌手としての経験はコロニアで磨かれた。それゆえに「コロニアが育てた歌手」と本紙では書いてきた。
 21歳だった彼女も一児の母になった。昨年から息子、笠戸丸ともやすくんを連れてきていたが、今年はなんと夫も。

左から高木社長、顕彰プレートを手に持つ井上祐見、菊地義治110周年実行委員長、中嶋マネージャー

左から高木社長、顕彰プレートを手に持つ井上祐見、菊地義治110周年実行委員長、中嶋マネージャー

 3月21日晩に弊社の高木ラウル社長宅マンションで歓迎会が開かれた際、夫の鎌田康史さん(39、東京都、東京農大卒)と話した。
 「実は、彼女が歌っているのを1回しか見たことがない。今日は家庭では見せない別の顔を見ました」としみじみ語っていた。コロニア名士らが50人ほども集まっているのを見回し、「僕が知らない、彼女の20年間の積み重ねがここにある」とも。
 彼女はその晩、「私は皆さんと出会わなかったら歌手を続けていなかったかも。高木社長は昨日まで10日間も入院していたのに、こんなに盛大な歓迎会をやってくれた。なんと感謝していいか分からない」と感無量の様子。
 マネージャーの言うことが振るっている。「『歌手は私生活を見せない方が良い』とよく言われますが、コロニアとは表裏のない長い付き合いをしてきた。むしろ、この20年間に家庭を作ったんだからブラジル式には紹介しなきゃ、という感じ。その方がコロニアの皆さんには喜んでいただけると思って、みんなで来ました」。見事なタブー破りだ。
 この日のために300キロ先から駆け付けた大ファン、グァタパラ文協の茂木常男会長も「7、8回は来てもらった。彼女が『グァタパラは自分の第二の故郷だ』って言ってくれたのが嬉しくてね」と目を細めた。
 切ないことに、ブラジル移民の側から祖国に捧げる曲は数え切れないほど作られてきた。井上祐美の曲の場合、日本側から移民を歌った曲であることが画期的だ。プロの曲としては初ではないか。そこに意味がある。
 今、世界は移民労働者問題に揺れているが、歌謡曲という大衆芸能のジャンルで、その現象に無謀にも真っ向から取り組んだ曲だ。日本の日本人は通常、海を超えた人を忘れる。ブラジル移民だけで25万人、中規模の市人口が丸ごと渡ったのに、その歴史は教科書にほぼでてこない。関心がない。
 だから移民を歌った曲は日本では注目されない。彼女と日系社会とのつながりが縁で、いつか彼女が注目されるのであれば、それはまさしく『コロニアが育てた歌手』である証拠だ。
 ぜひ次のタブー破りは「移民モノは売れない」に挑戦し、ぜひ「移民アルバム」を成功させてほしい。あと10年かかってもいい。100年後も歌い継がれる曲を遺して欲しい。(深)


『ソウ・ジャポネーザ』 井上祐見
 作詞 国谷幸生/ 作曲 藤山節雄
(台詞)
 1908年4月28日、ブラジルを目指し、笠戸丸が神戸を出港しました。それが、ブラジルへの移住の始まりでした。
(歌)    1
 移住坂を登れば 神戸の街並み 海の向こうは 異国の空よ ドラが鳴る別れの メリケン波止場は なみだ黄昏 いつか戻ると 心に誓う エウ ソウ ジャポネーザ いつまでも エウ ソウ ジャポネーザ 忘れない あの日誰もが 胸に抱く 希望の船出 熱き想い
      2
 サザンクロスが光れば 日本は朝です 父と母との ふるさと遥か 私にも流れる 大和の心は 何を教える 海の彼方の 見知らぬ国よ エウ ソウ ジャポネーザ いつまでも エウ ソウ ジャポネーザ 忘れない いつも心に 抱いている 白地に紅く 燃える想い
(台詞)
 だんだん日本が遠くなります。でも、やっぱり、やっぱり日本が大好きです
(歌)    3
 今頃なら桜が きれいでしょうね 北の山では 雪解け近い 父母の言葉を 聞いては夢見る めぐる季節よ 春の訪れ やさしい風よ エウ ソウ ジャポネーザ いつまでも エウ ソウ ジャポネーザ 忘れない 清く正しく 美しく 日本の心 永久(トワ)に生きる
“Sou Japonesa”
ijyuuzakawo noboreba koobeno matinami
umino mukouwa ikokuno sorayo
doraganaru―wakareno merikenhatobawa
namidatasogare itsukamodoruto kokoronitikau
Eu sou japonesa itumademo
Eu sou japonesa wasurenai
anohi daremoga muneni idaku
kiboono funade atsuki omoi
2
sazan―kurosuga―hikareba
tititohahatono furusato haruka
watashinimo yamatono kokorowa naniwo oshieru
umino kanatano mishiranu kuniyo
Eu sou japonesa itumademo
Eu sou japonesa wasurenai
itumo kokoroni daiteiru
shirojini akaku Moeru omoi
3
Imagoronara Sakuraga Quireideshoune
Kitano Yamadewa Yuquidoque Tikai
FubonoKotobawo Kiitewa Yumemiru Meguru quisetuyo
Haruno―otozureYasashii kazeyo
Eu sou japonesa itumademo
Eu sou japonesa wasurenai
Quiyoku―tadashiku utsukushiku
Nihon-no-kokoro towani-ikiru

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