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稀代の「至高の総統」振り返る=「東方の三博士の日」1月6日に=パラグァイ在住 坂本邦雄

ホセ・ガスパール・ロドリゲス・デ・フランシア(Alfredo L. Demersay [Public domain], via Wikimedia Commons)

ホセ・ガスパール・ロドリゲス・デ・フランシア(Alfredo L. Demersay [Public domain], via Wikimedia Commons)

 カトリック教国のパラグァイでは、クリスマスのプレゼントを、親しい者同士の間で交換するのに加えて、新年の1月6日は、各家庭で「東方の三博士」の贈物を待ち侘びた、幼い子供達の歓喜の声で朝が明けるのが、微笑ましい習わしである。
 その起源は、「博士」あるいは「賢者」と呼ばれるメルキーオル、バルタザールとガスパールの3人の占星学者達(Reyes Magos)が、輝く星の案内で、東方のベツレヘムで聖母マリアが、生まれたばかりの、イエスを抱いているのを見付けて、持参の贈物(乳香、没薬、黄金)を捧げたと言う、聖書の伝えによる。
 この伝説を信じる、無邪気な子供達は3人の博士に手紙を書いて、欲しい物を頼み、それを受け取る靴も揃えて、博士達が遥々乗って来る、ラクダを労うために、飼葉の草と飲む水を用意し、その夜は願いが叶うように祈りながら、早々に就寝する。
 結果は、親達の懐次第である。お陰で、街はクリスマス同様、商売の?き込み時の、「1月6日商戦」が、華々しく展開される。
 こんな話を、なぜ今更持ち出したかと言うと、「1月6日」は、筆者が目下鋭意邦訳中である、パラグァイの文豪、故アウグスト・ロア・バストス氏の為政フィクション歴史小説で、スペインの1989年度セルバンテス受賞作『Yo el Supremo=余は至高の総統なり』の主人公、ホセ・ガスパール・ロドリゲス・デ・フランシア(1766年1月6日―1840年9月20日)の誕生日に当るからである。
 この通称「ドクトル・フランシア」と呼ばれ、畏敬され、かつ恐れられた独裁者は、1811年に独立して間もないパラグァイを、厳しい鎖国政策の下に強権をもって、内外の政敵から新共和国の主権を断固として守り通し、国家のアイデンティティを確立した建国の父とされる。
 筆者は、このロア・バストスの著書を訳しながら、大いに勉強になったのは、功罪多しといろいろ非難される、かつて35年もの長期に亙りパラグァイを圧政した、故ストロエスネル大統領(1954~89)は正に、ドクトル・フランシアを手本とした、当時においては、一つの必要悪ではなかったかと、今になっては合点する事も多いのである。
 余談だが、お隣のブラジルで、今度ボウソナロ新政権が誕生したのも、けだし全くの偶然ではなかろう。
 思うに、この新任のボウソナロ大統領と我がマリト・アブド大統領は馬が合う様で、マリトが挑戦する誓約の行政浄化政策の後押しになれば、心強いと言うものだ。
 さてホセ・ガスパール・ロドリゲス・デ・フランシア・イ・ヴェラスコの話に戻もどれば、彼は1766年1月6日にアスンション市で生れた。
 初等教育は同市で終え、引き続き若くして、ジェスイト派によりアルゼンチンのコルドバ市に創設された神学校(現コルドバ国立総合大学)に留学し、民法宗規学を修め、博士号を取得した。
 帰国後は、教鞭を執り、弁護士事務所も開業した。
 同時に州議会(Cabildo)で参議官を勤めた。
 スペインの植民地支配勢力がクーデター(独立革命)で崩壊した後、解職されたベラスコ知事及びバレリアノ・セバリョスと三頭執政委員会を、1811年5月16日から同6月17日まで構成した。
 その後は、臨時独裁政権を1814年10月14日から1816年5月10日の間、握るに至るまで、相次ぎ出来た後継政府、つまり最高行政委員会(1811年6月20~1813年10月12日)及び摂政委員会(1613年10月12日~同10月3日)に、絶えず名を連ねていた。
 そして最後は、最終的に1816年6月1日に、「至高の総統」として就任したのだった。
 その厳しいが、清廉に徹した独裁政権は、総統が死亡した1840年9月20日まで、連綿として24年間(臨時期間を数えると26年)も続いた。
 その長い統治期間の大部分は、主に国境を護り、外敵の脅威を避け、国家の主権を確立する為に努力した。
 総統の治政中、ウルグァイの志士ホセ・ヘルバシオ・アルティガス将軍は国を追われ、パラグァイに亡命して来て、1850年に亡くなるまで、30年間も我が国で過ごした。
 パラグァイで住んだ、もう一人の有名人に、フランス人のアマード・ボンプランド博物学者がいる。
 しかし、この者はスパイ行為を働き、総統の逆鱗に触れ、厳しい謹慎で長らく出国も禁じられたので、獄中のボンプランド救出の為に、ベネズエラのリベルタドール=解放者シモン・ボリバルは、パラグァイに軍事侵攻するとまで脅迫し、大問題を起こした。
 しかして、ドクトル・フランシアの独裁政治初期数年間の情勢は、比較的寛大で穏やかだった。
 ところが1820年になって、フルヘンシオ・ジェグロスを筆頭とし、カヴァリェロス、マシエル、イトゥルベ、フェルナンド・デ・ラ・モーラ等の、パラグァイの独立に貢献した一連の多くの立役者達の「総統暗殺の大陰謀」が発覚し、彼等は一網打尽、一斉に検挙され、処刑や財産の没収が厳しく実施された。
 以降「至高の総統」の専制政治は、農業の振興を図り、逆に支配階級の徹底した厳しい弾圧、貿易の抑圧と衰退、学校や修道院の閉鎖及び、カトリック教会の政治介入を厳に取締まった政策が特徴となった。
 完全な鎖国政策を執り、近隣諸国との外交を絶ち、人の出入国や書簡の交換も一切絶対に許さなかった。
 この稀代の「至高の総統」は、1840年9月20日に74歳で永眠した。

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