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『百年の水流』開発前線編 第四部=ドラマの町バストス=外山 脩=(9)

連合会幹部、更迭

 前項までに記した様な乱れに併行、移住地経営上の一大齟齬が生じていた。日本からの入植者が、毎年200家族の計画に対し、実績は1929年は既述の様に64家族、1930年は23家族、31年は7家族…という情けないほどの数字だったのである。
 対策として、ブラ拓は各地に居る既存の移民を入植させるという手を打っていた。応じたのは1929年15家族、翌1930年は65家族、1931年は151家族であった。
 しかし、これはおかしかった。そもそも、この国策移住地は、日本国内に充満する鬱積感を散らすため、移民を送り出すことが狙いであった。従って、すでに現地に居る者を━━少数ならともかく━━多数入れてしまったら、目的から逸れてしまうわけである。
 もはや、諸々の乱れを含め、連合会そのものの責任が問われる段階へ来ていた。
 1931年、理事長の田付七太、専務理事の梅谷光貞は退いた。新理事長は関西の財界人、平生釟三郎(ひらお・はちさぶろう)が就任した。平生は現地担当の専務理事として海外興業㈱に居った宮坂国人を招いた。
 宮坂はサンパウロへ赴任、新施策を打ち出した。入植者の経済的負担を大幅に軽減、さらに彼らに移住地の経営権を段階的に移譲する━━という内容だった。
 日本では、連合会が入植者の募集に力を注いだ。1932年は32家族、33年には180家族が渡航した。ただしブラ拓は既移住者の募集も続けた。この人々からは不平・不満は出なかった。
 それまで散々騙された経験から(こんなモノだ)と割り切っていたのだ。ブラ拓にとっては、都合が良かったのである。そこで最初の目的を大幅に修正してしまったのである。
 入植者は移住地開設の8年後には、目標の1、000家族を越した。予定より3年遅れていた。
 最終的には、もう少し増えたが、日本からの直来移民は3割以下、残りが既移住者だった。

霜出静二

 この間、1933年1月、入植者の自治会が発足した。宮坂は、これに先ず、道路と学校の管理権を移譲しようとした。皆、喜ぶ筈であった。が、結果は真逆だった。例えば、例の霜出静二などは「我々に経済的負担がかかる、反対!」と拒否した。彼は一千枚のビラを刷ってバラ撒き、集会所に入植者を集めて3時間、反対演説をぶち━━宮坂の移譲案を受け入れようとしていた━━自治会会長の清水伴三郎を攻撃した。さらに清水の自宅に押しかけ、自治会を解散させてしまった。
 霜出やその仲間が欲していたのは、ブラ拓の資金付きのバストス移住地の経営権であって、資金無しの道路や学校の管理権など迷惑だったのである。
 霜出は脇山甚作(日本陸軍退役大佐、1931年入植)を担いで、新自治会を作り上げた。声明書を配布「ブラ拓事務所を解散、業務を入植者の自治会に移管せよ」と要求した。その中に「事務所は入植者のために存在するのであって、事務員にその生活費を稼がせるためではない」「畑中支配人が会計主任を兼任していた一カ年に莫大な行方不明金が発生した」という意味の文言もあった。
 これには畑中たち事務所側が憤怒、霜出とその同志一人に、移住地からの立ち退きを命じた。1934年のことである。この時、霜出は拒否したが、畑中たちは力づくでも追い出す、と強硬だった。結局、霜出はソロカバナ線ランシャリア駅コンチネンタル植民地に移った。畑中たちはヤレヤレとひと安心した。が、3年後、霜出は平然と舞い戻ってきた。これには事務所側は唖然とした。
 が、今度はどういうわけか、移住地内に留まることを認め、土地も分譲して懐柔、ただし「公職にはつかない」という条件をつけた。しかし霜出は後に幾つもの公職をつとめた。約束が違う、と詰め寄ると、ご当人は「皆が選ぶんだから仕方ない」と嘯いていた。
 それより先、霜出の追放中、ブラ拓は、移住地の経営権をバストス産組(1933年発足)に段階的に移管し始めた。以後、入植者とブラ拓事務所の軋轢は自然に終息に向かった。
 しかし、実は、そういうことよりも深刻極まる事態が、1930年以降、バストス移住地を襲っていた。農産物市場で主作物カフェーが大暴落、副作物の穀物類も極端に低迷したのである。これをなんとかしなければならなかった。

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