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臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(52)

 サン・マルチニョ耕地から脱走したいきさつもあり、それだけの金を貯めることなどできなかったのだ。樽の家族は経済や財政に関してはまるで無能な遺伝子が受け継がれているようにみえる。1910年後半から1930年までつづいた日本移民の土地購入の熱をただ指をくわえて眺めているだけだったのだ。
 コーヒー園で働いていたときでも、移民たちは条件付きで、わずかな土地ではあるが、自分が好きなものを栽培することができた。わずかな資金で、棉と米を植えたりする者もいた。とくに、米はいずれ不足するのではないかと、怖れられていた。もっとも、作物を植えることは容易ではなかった。
 まず、農園主の許可がひつようだし、ある程度の資金もいる。コーヒー園の仕事以外に、作物の手入れも必要だ。収穫物もすべて自分のものになるわけではない。共同栽培した場合は割り当て分だけしかもらえない。借地をして植えれば期間が限定されるし、農園主に借地代を払わなければならない。
 それでも収穫量が多いときにはいくらかの金が手に入り、新しい地域の小さな土地を買い求めることもできた。そこは「旧コーヒー栽培地帯」の外側になるサンパウロ州内陸地方で、北はフランカにはじまり、リベイロン・プレット、アララクァラ、サンカルロス、ジャウー、ボツカツを経て南はピラジュイーにいたるまで、東から西へ帯状にのびる地帯だった。
 当時、小さな農園を買うためには少なくとも5年はかかるといわれ、10年かかった者もおり、こうして日本に帰る夢はどんどん遠ざかっていった。
 自分の土地を手に入れた移民は移動することをやめ、そこに留まった。もっとも、みんながみんな土地を買えたわけではなく、大部分はコーヒー園で働きながら、生活を支える方法を求めざるをえなかった。
 そのうち日本人はサンパウロ州内陸に拡散しはじめた。
 移民たちはこれまでの成果に不満をいだき、体力を消耗させるだけで先に希望の見出せないコーヒー園の仕事に代わって、より好条件の綿栽培を見いだしたのだ。中間地帯とよばれる地域(旧コーヒー地帯と新地帯にはさまれ、州を交差する主な鉄道線の終着点にある開拓途上の地域)が不満をもつ者たちの注目をあびていた。
 ドウラデンセ線(サンカルロスから出て、ドウラドを通りボア・エスペランサ、タバチンガ、イビチンガ地区の人々に利用されていた)あるいはアララクァーラ線(ピンドラマ、カタンヅバ、サン・ジョセ・ド・リオ・プレットを通る線)周辺にはすでに日本移民が移り住んでいた。彼らは大資本がいるコーヒー栽培ではなく、棉や米を栽培していた。日本からくる新来移民たちは、そのころノロエステ沿線に入植し、他の者たちは新設されたソロカバナ線やパウリスタ線の沿線に入植したものである。
 いくつかの地方に「周旋屋」という入植者と農場主の間をとりもつ人間が現れてきた。コーヒー樹を育てる仕事の請負人のようなものだ。これにたずさわる労働者は木の伐採、山焼き、そのあとの整理をし、苗の植えつけ、そして、4年から6年の間育てながら手入れする。
 家族の労働力によって4000から8000本の樹がまかせられる。4年の契約のうち、住む家は請負人が建て、井戸掘り、伐採、山焼き、整地、植付けの費用は農場主が負担する。そのあとの請負人の仕事は雑草を抜きとることだった。

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