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『百年の水流』開発前線編 第四部=ドラマの町バストス=外山 脩=(19)

技術、技術、技術…

 1952年、蚕糸業界は往年の活況を取り戻していた。
 同年、ブラタク製糸の役員が改選され、社長=加藤好之、役員=井久保治、天野賢治、谷口章となった。従業員は344人、生糸は年産42・7㌧で、サンパウロ州の生糸生産の60㌫を占めていた。残りが橋本製糸や非日系の10社近くの合計分であった。
 しかしブラタクは、自社の技術が世界水準と比較すると、大きく遅れておると自覚、それを回復するため、日本からの技術導入を図った。まず熟練した養蚕家を移民として呼び寄せようとした。
 が、戦中・戦後の邦人社会の騒乱の後遺症で、移民受入れはブラジル人社会に反撥があった。そこでパウリスタ養蚕協会というものを作って政治的に運動、呼寄せ許可を連邦政府から取りつけた。
 これで1954年以降、189家族が入国した。
 次に1955年、四工場をバストス一カ所にまとめた。
 同年、谷口工場長が訪日、改良蚕種や新型の自動繰糸機を買い付けた。その時、繰糸機のメーカー増沢工業から、技術指導のため3年間の予定で、技師の谷内利男が派遣されてきた。
 1956年、会社組織を「有限」から「株式」に改めた。この折、ブラ拓の出資分が天野賢治、谷口章へ譲渡されている。社長には天野が就任した。(ブラ拓は解散手続き中だった)
 1959年、谷内技師は3年が過ぎたので、帰国しようとした。が、彼がいなければ、工場の操業は覚束ない。そこで、天野がサンパウロから出張、一週間、毎日、谷内宅へ通った。無論、帰国を思い留まらせようとしたのである。
 が、その間、天野は余りモノを言わなかった。これが却って効果があったようで、谷内は承諾をした。ただし日本から新技術をさらに導入するという条件をつけ、天野は、それを呑んだ。
 谷内は以後、日本から盛んに技術者を呼び寄せた。その数は40名を超した。
 ブラタク製糸は技術、技術、技術…と懸命になっていたのである。
 因みに、谷内利男は後に工場長、専務取締役、経営審議会会長を務めた。

急成長

 技術に力を入れた結果であろうが、1960年代、ブラタク製糸の生糸の販売は伸び続けた。
 1962年、終戦後絶えていた欧州への輸出を再開した。代理店は業界の老舗スイスのDESCOだった。
 1966年、伊藤忠を通じての日本への本格的輸出が始まった。
 同年、自己資金による増資と役員改選をし、社長=天野賢治、専務=谷口章、取締役=谷内利男ら5人…という構成になった。株式は、この7人で70~80㌫を所有、残りは他の功績ある社員へ譲られた。
 1967年、工場を8時間操業から16時間操業、二交代制にした。そうしなければ需要増に応じられなかったのだ。
 1970年、北パラナでの養蚕普及に着手した。サンパウロ州での養蚕は限界に来ていた。農業者には桑の栽培よりもっと有利な農地の利用方法があった。加えて桑の生産性も繭の質も低下していた。
 北パラナには「地形が悪く大型機械が使用できず、桑を植えるくらいしか利用方法はないが、地質は肥えている」という土地が多く在った。桑の生産性はサンパウロの3倍近かった。そこで、資金・技術援助をして、養蚕家を育てることにしたのである。
 同時期、撚糸の第二工場を建設、生糸の20~25㌫を絹糸にして出荷する様になった。
 政府の輸出奨励策もあって、財務状態は良好であった。
 ブラタク製糸は急成長していた。(つづく)

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