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臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(113)

 1941年11月5日、同月末日までに対米外交交渉を行うよう指令がだされたが、11月26日、アメリカは日本側から提示された条件を否定した。
 12月1日、東京で軍事および文民閣僚出席のもとに御前会議が行われ、開戦が決定された。ワシントンあての日米外交関係の断絶の公式声明書が作成されたが、国家安全をきして、その発送が遅れた上、ワシントンの日本大使館の官僚主義が災いし、その声明書がアメリカ国務長官の手にわたったのは攻撃が始まったあとだった。アメリカは公式声明書を無視したわけではない。
 北米のスパイ組織はすでに日本が発信した最新情報を解読していて、日本大使の手から声明をうけとる数時間まえに、声明書のコピーを国務長官に渡していたのだ。
 攻撃するとしたら、南アジアと日本を結ぶ太平洋に滞在するアメリカ艦隊であることはいうまでもない。10日前、千島列島から出発した348機と5隻の航空母艦で編成された艦隊が1941年12月7日、日曜日、ハワイ列島のオアフ島にある米軍基地パールハーバーを攻撃した。奇襲により完璧に近い成果を収めた。7隻の船をはじめ、8隻の戦艦が沈没あるいは損害により稼働不能となった。そして、真珠湾基地の90%の基地が破壊された。
 同時にウェーク島、グァム島、ミッドウエー諸島、フィリピン、香港などの西洋列強国の基地や軍事施設を攻撃し、同じような成果を挙げた。
 東南に向けた日本人部隊の迅速な道が開かれていった。1941年のクリスマス、香港は占領され、翌年の1942年1月2日、マニラが落ち、そのすぐあと、フィリピン諸島のすべてが支配下におかれた。日本軍はマレー半島の東海岸に上陸し、1月11日クアランプールを占領し、その4日後、難攻不落といわれていたシンガポールが日本の手に落ちた。日本部隊にオランダ領東インド方面に進出の許可が下り、3月9日に、そして、4月末にはビルマを占領した。
 このように日本はチモール島とモンゴリアの大草原に挟まれたラングーンと太平洋中部のほとんどの地帯を手に入れたのだ。
 たった5ヵ月間の軍事作戦により、大東亜共栄圏の構想を確立できることになった。日本は北中国と満州国を工業拠点とし、その他の占領地を原料の供給と、生産物消費の地とすることにした。その利益で外国から国を守るための強い経済力をつけ、後にインド、オーストラリア、北方ではロシアのシベリア方面に勢力を広げようと考えていた。
 これらすべてのエピソードを正輝はメーガー老人、仲間でもっとも教養のある高林先生、アララクァーラで知り合った三保さん、サンパウロ街にリスボア・ホテルをもつ有田博夫マリオ氏、洗濯業を営む湯田幾江青年などと祝いあった。日本人同胞がまちにまった出来事だった。
 彼ら日本人は子どものころ村の尋常小学校で使われた教科書に書かれ、なかには暗記までしたことのある日本大帝国の、発展の日を切望していたのだ。日本軍のアジア最前線のニュースは不十分だった。ブラジル政府の外国語による報道が禁止され、同胞間の情報伝達が滞ったからだ。ただし、移民のなかに日本政府のニュースを、それほど明瞭でなくともとらえることのできる性能がたかい短波ラジオをもった人がいた。

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