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連載小説=臣民=――正輝、バンザイ――=保久原淳次ジョージ・原作=中田みちよ・古川恵子共訳=(73)

 房子は体の小さい女だった。だからひ弱にみえた。はじめは流産しないように細心の注意をはらった。仕事のリズムもいくらか遅くなった。ブラジルに着いてからはじめて正輝は真剣に農作業に励んだ。作物に関する正確な時期をみきわめ、すべての作業に注意を払った。それから、いままで見せたことのない懸命さで家事も手伝った。
 「生まれてくる子どもに、できるだけ万全の準備をしよう」
 樽叔父がみたら、同じ人間だとは思わなかっただろう。
 何ヵ月がすぎ、流産の危険がなくなった。房子は以前どおり野良仕事をするようになった。朝、早く起きだし、いままで通りの朝食を用意した。甘い水っぽいコーヒーと、前日の冷ご飯をフライパンで炒め、塩で味付けしたものだった。このご飯をアンダ メエ(油ご飯)とよんでいた。沖縄から日本全土に広まったサツマイモを揚げて食べることもあった。朝食がすむと、頭に手ぬぐいを、その上に麦藁帽子をかぶり、農機具をもって、それぞれ時期に応じて、除草、剪定、種まき、収穫に出かけた。
 妊娠5ヵ月のころ、房子は家のそばをうろつく野良犬に噛まれてしまった。犬はよだれをたらし、うつろな目をしてグルグルと歩き回った。正輝は房子が噛まれたのをみて「狂犬だ、狂犬だ」とさけんだ。
 すぐに犬を殺した。いかし、噛まれた者はどうすればいいのか? 近所の人たちの助言で正輝はいちばん近い保健所に房子を担ぎこんだ。そこは近在ではたったひとつのタバチンガの保健所だった。
 係りの者はいきさつを聞き応急手当をした。マニュアル通りの消毒殺菌だ。まず、傷口をていねいに水と石鹸で洗い、菌が広がらないようにした。さいわい傷は浅かったが、傷口をアルコールで消毒し、その上にヨードチンキを塗った。房子はこれですべてうまくいき、安心して家に帰れると思った。
 ところが係り員は消毒をすませたあと、「ワクチンを打たなくてはいけません」ときっぱりいった。
 正輝はタドタドしいポルトガル語で「エントン アプリッカ バシナ」と予防注射を打つように頼んだ。早速その注射を打ってもらえばことが終ると、いとも簡単に考えたのだ。ところが、そう簡単ではなかった。ワクチンはサンパウロにしかなく、専門の医師に打ってもらう。しかも、毎日つづけて打つことはできず、何日かごとなので、少なくとも2週間はかかるというのだ。サンパウロのパスツール研究所にしかワクチンがなく、サンパウロまで行かなくてはならない。
 サンパウロに行くことに躊躇っている夫婦をみて、保健所の係り員は二人に分るように、ゆっくり、言葉をきって説明した。
 「狂犬病は、治療法、のない、病気です」
そして、内臓にとどまれば、100%死ぬこと。つづけて、「だれも助からない。絶対に死ぬ」とつけ加えていった。そのあと、ワクチンは噛まれた人の内臓に菌がとどまるのを防ぐためのものだと「絶対に死ぬ」という言葉を訂正した。
 訂正してくれたが、二人の心配は消えなかった。サンパウロに行かなければ、妻は狂犬病で死んでしまうのだ。あんなに待ち望んだ子どもも失ってしまう。

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