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連載小説=臣民=――正輝、バンザイ――=保久原淳次ジョージ・原作=中田みちよ・古川恵子共訳=(76)

 また、本屋もあり、正輝は長い時間を、そこですごした。本棚にはブラジルで出版された日本語の本、何か月ごとに日本からとどく本、それに古本も並んでいた。サンパウロに留まっているあいだ、正輝は売られている多くの書物に目を通した。そして、多くの書物が世に出されていることを知り、タバチンガのような世間から孤立したところに生きているため、読書にしても知識にしても、日本の現状からあまりにも遅れている自分を知ることになった。
 正輝は一三歳でサントスに下船して以来、はじめて階層のちがう人たちに出会うことができた。彼らは親切で気を使ってくれるばかりでなく、インテリで知識が豊富だった。一五、六歳年上の翁長助成氏がその一人だった。ただ年が上だということが、最良の話し相手の条件だったわけではない。豊富な人生経験、知識の深さ、世情に対する洞察力の鋭さ、身のふり方が正輝を惹きつけた。態度に気取りなどなく、聞き上手で、おしつけがましくなく、しったかぶりをせず、教訓をぶらない。
 「かれこそ、まれにみる紳士だ」
 正輝はサンパウロにいて、翁長氏に会うたびにそう思った。
 狂犬病のワクチン投与がすみ、房子の感染の危惧もなくなり、二人がタバチンガに戻ろうとしてとき、正輝は自分が生き返ったように感じた。豊富とはいえないが都会生活を体験したこと、知識階級の人たちと会話ができたこと、さらに家にある読み古した本より、ずっとためになる本の存在を知ったこと。
 ブラジルの生活はこれまでの奥地の単純な生活ばかりではないことが分ったのだ。もっと、面白い生活があるかもしれない。このような感情が彼に新たな活力をあたえたが、半面、これまでの平凡な暮らしから抜けだすのは無理ではないかという不安も頭をよぎった。これから先の生活をより慎重にする必要がある。長男の誕生もある。ますます慎重に行動しなければと考えた。
 腹部が大きくなるにつれ、房子は農作業が体にこたえるようになった。けれども仕事はつづけていた。母や沖縄の女たちが耐えてきた妊娠を房子もけんめいに耐えた。出産は女にとっては自然現象なのだ。それをだまって受け入れるのは当然のことだ。
 房子は出産当日、陣痛の間隔が縮まったとき野良仕事をやめた。陣痛のためというより、出産の準備をするためだった。
 その日、正輝と房子は家にいた。房子はもう自由に動き回れなかったから、夫に支度に必要なことを指図した。浜松の産婆学校のプロ産婆師の卒業証書をもっている。そこで習ったことを自分のために実行しようとしているのだ。
 「布を何枚もとり分けて。ベッドや床に血が流れるのを防ぐため、何枚かをわたしの足元に置いて」と指示した。
 また、赤ん坊の体を包むため、何日か前、きれいに洗っておいたうすでの布を彼女の手元におくようにいった。ときには陣痛で声が弱くなるが、うめき声は上げなかった。
 「日本人の女はお産のとき、うめかず、さわがないものだ」といつも年上の者から聞かされていたから、彼女もそうしたのだ。
 「薪を焚いて、鍋にたくさん水をためておいて。お産のとき、すぐにお湯をわかさなくてはならない…から」
 「釜戸のそばにハサミをおいてちょうだい。そのときがきたら、ハサミの刃を両面火でやいて消毒するの」

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