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県連故郷巡りカリフォルニア=150周年、満砂那(マンザナー)に平和を祈る=《3》=ハワイ日系人と米本土の違い

強制収容所内で、合衆国旗への「忠誠の誓い」をする子供たち(1942年4月、Photo attributed to Dorothea Lange(w). [Public domain])

強制収容所内で、合衆国旗への「忠誠の誓い」をする子供たち(1942年4月、Photo attributed to Dorothea Lange(w). [Public domain])

 日系人迫害の極め付けと言える大戦中の強制収容所収容に関する展示は、全米日系人博物館の中心テーマと言える。
 反日感情が強いことで知られたフランクリン・D・ルーズベルト大統領は1942年2月19日に「大統領令9066号」に署名を行い、「軍が必要とする場合(国防上)に強制的に『外国人』を隔離する」ことを承認した。真珠湾攻撃の2カ月後だ。
 これを根拠に42年2月下旬から、カリフォルニア州やワシントン州、オレゴン州などの西海岸沿岸州などの日系人と日本人移民約12万人が強制的に完全な立ち退きを命ぜられた。営々と積み重ねてきた不動産や自動車など、私有財産を含む全ての財産の放棄をさせられた。
 「全米10カ所に作られた強制収容所に約12万4千人の日系人が入れられました。日本人は敵性国民として、それまでに築き上げた個人的な資産は全て取り上げられ、持って行けたのはトランク二つだけ。しかも政府の口実は『日系人を迫害から守ってやる』というもの。でも強制収容所で兵士の銃口は、塀の外ではなく、内側を向いていました」。ロッキーさんのそんな説明に、故郷巡り一行は吸い込まれるように聞き入った。
 日系人だけで編成されてヨーロッパ戦線に派遣された有名な第442部隊に話が及ぶと、さらに舌鋒鋭くなり、ロッキーさんは「ハワイからたくさんの日系人が志願しましたが、本土からほんの少しだった。第442部隊の大半がハワイ出身でした。なんでだか分かりますか?」と問いかけた。
 調べてみると、当初ハワイからは定員1500人の6倍が応募したため、急きょ1千人を追加して2600人が志願した。それに対し、本土の強制収容所からは800人のみ。ハワイと本土の徴兵適齢期の日系人口はほぼ同じくらいだったから、明らかにハワイの方が積極的だ。
 その質問に、一行は誰も分からない。「ハワイは強制収容されなかったからです。というか、人数が多すぎて、できなかった」。一行からは「ほほ~う」と感嘆の声が上がった。
 1940年米国国勢調査の時点で、ハワイ全住民の37%(15万8千人)が日系人であり、いわば多数派といえる存在であり、もしも彼らを隔離したら社会自体が成り立たなくなる恐れがあった。また、収容しても膨大な経費が必要となるために強制収容できなかったようだ。
 そんなハワイに対して本土では、理不尽なことに財産を没収され、二世も含めて強制収容された。ロッキーさんは「つまり、『お前たちは敵性国民だから』と強制収容なんてヒドイことをしておいて、政府の都合のいい時だけ『アメリカのために戦え』ですから、頭に来ますよね」と当時の徴兵に応じなかった米本土二世の気持ちを代弁した。(つづく、深沢正雪記者)

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