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臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(155)

 湯田幾江といっしょに検挙された高林明雄もカルドーゾ署長に同じ日に調れらべられた。36歳で、父は高林信太郎、母はヌイ、臣道聯盟のアララクァーラ支部では一番の知識人だった。ただ一人、高等学校を出ていて、町の日本人の間で「先生」とよばれていた。
 1934年に渡伯、サントスからモトゥカ郡の東京植民地に入植し、アララクァーラ市に移った。臣道聯盟の会員であることを認め、月に2クルゼイロ会に納めていた。市の日本人同胞のなかで、彼ひとりが本部から直接、書類品を受け取り、それを他の会員に配布していた。日本の戦争の勝利を信じ聯盟に入ったと証明した。先に証言した湯田は有田マリオがラジオを持っていたことを知らなかったといったが、高林はラジオについて肯定し、「戦時中、そして、戦後も日本の情報を得ていた」と証言した。
 高林先生は「去年(1945年)の9月、何日かは思い出せないが、名も知らない行商人が20日ごろブラジル訪問のため日本政府の代表者を乗せた船が来ると語った」と証言した。この行商人とは臣道聯盟の指導者渡真利誠一に違いなかった。彼は帽子製造機を買い、作った品物を売り歩く行商人という隠れ蓑を着て、サンパウロの奥地を歩き回っていた。通行証明書の職業の欄には「行商人」と書かれていた。
 高林先生はその情報を知らせた者の名はしらないとごまかした。また、アララクァーラの臣道聯盟の会員の名も挙げなかった。すでに検挙された仲間の湯田幾江しか知らないといった。すでに捕まっている仲間に害が及ぶことをさけたのだろう。だが、捕まりかけているかを知らなかったのだろう。
 シミロ シンドという名で検挙された男は訴訟書に清水信三と署名した。彼の場合、取り扱いが他のアララクァーラの仲間と違っていて、調査まで待たなくてすんだ。4月12日に検挙され、翌13日には警察長官に呼び出された。清水は正輝のグループに属さず、モトゥカの会員だった。湯田や高林の証言と全く異なり、ただ、日本の勝利を信じて加入していただけで、月に2クルゼイロ払っていた。認識組の暗殺者のリストの存在も知らなかったと述べた。

 サンパウロ州で検挙され尋問を受ける日を待つ未決監の検挙者の数は、1000人ちかくに上った。正輝をはじめ4月初旬に検挙された者にとって、なんと長い日々だったことか。DOPSで身元確認されて以来、カルドーゾ署長に取り調べを受ける日を不安にかられながら待った。日ごとに同胞のグループが監獄部屋を後にし、列になり、別館の門から出て行く。取調べを受けに行くのだ。留置所に戻った何人かは身の回り品をもって、各自の住む町の留置所に帰り、釈放を待つ。取調べのあと釈放されるまで、不安はますますつのる。
 だが正輝には、まだ、取調べの日さえ来ていないのだ。彼は日常、暇な時間が好きだった。樽、ウシ叔父夫婦の保護下ですごしたマルチーニョ農場、グァタパラ農場それからタバチンガのパウケイマードス時代、コーヒー栽培や土壌管理の厳しい労働から逃れて、こっそり休んだではないか? 農園の監督者が行ってしまうと、地面に身を投げ、腕組みし、頭をのせ、人生やこの世の流れについて長い間、瞑想したではないか? いつも叔父に「おまえは労働にむいていない。どうやってメシを食っていくのか? 霞でも食って生きていくのか」と叱られたではないか? アララクァーラでもすでに7人の子どもがいるというのに、房子に朝市の売店を任せきりにして、ビールを飲んだり、政治論したり、日本の勝利について話しにいったではないか?

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