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臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(169)

 あるいは、もっとよりよい生活ができたかもしれない。ここにやってきた日本人家族のほとんどは、貧乏生活に耐えてきた。現在は、どうにか食べていけ、仕事があるといっても、渡伯時の夢、母国に錦を飾るというにはほど遠い状況である。正輝は自分が家族が生きているだけの最小の金しか得られず、金儲けする能のない人間だということをよく知っていた。
 移民のおおかたはコーヒー園での苛酷な労働に耐えかね、多少でも実入りのいい土地を求めて転居していく。そして、生まれ故郷とはまったく違った環境に挫折感を抱いていくのだが、できるだけ早く金をもうけ、2年、3年のうちに帰郷しようと思った夢は、ブラジルについて、何週間も経たずに消えうせてしまっている。
 しかし、正輝はサントスで若狭丸を下船したときから、そんな希望をいだいたことはなかった。はじめの入植地サンマルチニョ耕地時代はまだ子どもだったが、そんな夢はとうに捨てていた。
 ブラジルでの生活が彼を苛なんでいたわけではない。長年、鍬を使うことで手の皮が硬さを増すように、農作業からの収入は次第に増えていってもいた。農作業が嫌いな正輝の心とは、まったく正反対の状況なのだ。うちつづく失望や挫折のくり返しが、心に分厚いまくをつくり、硬い表皮でおおわせていたから、ブラジルであまり成果を挙げていないことなど、気にもならなかった。
 では、何が悩みなのか?
 コーヒー園の労働に痛む体からブラジル滞在がつらいものであることが分かったし、保久原家の責任者、樽叔父からもらった初めての給金をみて、すぐに日本に帰られるという考えは捨ててもいた。できるだけ早く帰国したいという気持ちも、着伯間もない父忠道の死の知らせを受けてから、その意味がなくなっていた。
 そして時間の経過とともに家庭をもち、子どもが誕生し、その成長につれて帰国の計画は遠のいていった。経済基盤からみてもっとも現実的な考え方だったといえよう。帰国できる見通しなど予測できないことだった。
 決して祖国を忘れたわけではない。いや、むしろそれとは正反対だった。熱烈な愛国者で、子どもたちにそれを継承させようと懸命になった。子どもがその年齢に達すると、沖縄で身につけ道徳感、宗教観念を伝えていった。不可能かに思われたが、時の流れ、距離の隔たりがその力を衰えさせるどころか、かえって、強くしていった。
 こうした観念は故郷、新城で小学校のときに教えられ、それがブラジルのような遠く離れた地で困難を乗り越えるバネとなったのだ。だからこそ、子どもたちに継承させるのに懸命だった。家庭ではウチナーグチとよばれる沖縄弁を使わせた。子どもたちは先祖の言葉を話せて、理解できなければならないと思ったからだ。同時に、日本人とつきあうために日本語をきちんと話すだけでなく、読み書きも習得させた。先生の一人は高林だった。ブラジル政府が日本語学校を閉鎖させたとき、高林先生を個人教授として家に迎えた。
 彼は自転車でマッシャードス区に通ってきてくれた。
 戦争が勃発し、日本軍の南西アジアへのすさましい侵攻と占領のニュースは彼を熱狂させた。当時、三線を子どもたちに教えようと、ウチマンウタ(沖縄民謡)を弾いていたのだが、正輝は覚えたばかりの戦歌を歌ってきかせた。

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