ホーム | 連載 | 2020年 | 新日系コミュニティ構築の鍵を歴史に探る=傑物・下元健吉=その志、気骨、創造心、度胸、闘志=ジャーナリスト 外山脩 | 新日系コミュニティ構築の鍵を歴史に探る=傑物・下元健吉=その志、気骨、創造心、度胸、闘志=ジャーナリスト 外山脩=(18)

新日系コミュニティ構築の鍵を歴史に探る=傑物・下元健吉=その志、気骨、創造心、度胸、闘志=ジャーナリスト 外山脩=(18)

 話を戻すが、役員をブラジル人に入れ代える時、下元は「経営の実権は、この俺がシッカリ握る」と周囲に明言していた。が、多くの組合員は危ぶんでいた。結果的には、補佐役に過ぎない下元が、役員を駆使しているのを見て驚いたという。
 また下元は「もし連中が、組合を食い物にしたら、俺が日本刀で叩き斬る」とも断言していた。連中とはインテルベントールと役員のことだが、幸い、そういうことはなく、下元は彼らと良好な関係を維持した。もっとも時には大声で論争するので周囲はハラハラした。
 が、論争したからといって、反下元的な動きをする者は居なかった。フェラースの助力もあったが、下元はブラジル人に好かれる人間的魅力の持ち主であった。
 しかし実は、下元は内面では、極度の緊張が続いていた。ために、この頃、欄の栽培を趣味とする様になっている。さらに戦時中、軍部に飛行機を二機、寄贈している。コチアに対する風当たりが厳しくなるのを防ごうとして、そういう手を打ったのである。
 しかし戦前、彼は日本軍のために、組合で国防献金というものをしていた。やることが矛盾していた。組合を守るためなら、何でもするという心境だったのであろうが、この飛行機の寄贈は、コチアでは下元死後も長く「表沙汰にしたくない事実」とされていた。
 それはともかくとして、下元の戦中突破は成功した。しかも奇跡的な現象が起きた。
 戦時下、敵性国企業は衰退、消滅する運命にあった。良くても現状維持であった。が、コチアは逆に興隆を続けたのである。
 1941年に2千人だった組合員は、新規加入が続き、終戦の1945年には3千人を超していた。それに伴い、事業量も伸びた。新組合員の中には、非日系人も多かった。1941年の開戦時、事業所は7カ所であったが、その後10カ所新設された。

戦中突破(下)

 この奇跡的現象は、次の様な経緯で起きた。
 戦中は、ガソリンを初め種々の営農資材が不足、農業者たちの仕事に支障を来した。が、コチアの場合はフェラースらブラジル人理事の人脈で、必要量を調達することが出来た。それを知って、多くの農業者がコチアを頼り加入した――。
 なお、その新組合員によって、出荷物はそれまでのじゃがいも、トマト、鶏卵、綿のほかに落花生、薄荷、バナナ、茶などが加わった。
 加えて戦争特需の間接的影響で、農産物の市況が高水準を維持した。自然、組合員は生産規模を大きくした。
 なお、ほかの日系産組も、コチアと同じ理由で、組合員が増え、事業量が伸びた処が多い。
 1944年、下元は出荷量の激増に対処、施設を拡充するため、例の増資積立金を5%に引き上げた。2%から5%への引上げなどは、平時の感覚では暴挙であるが、この時は――少なくとも記録の上では――大した波乱は起きていない。市況が良かったため、組合員が堪えることができたのであろう。
 結果として、戦中に増えた施設の価値は、開戦前のそれの5倍に相当した…というから驚く。
 この過程で、下元はその施設の建設工事まで組合の手でやると言い出し、技術部なるものをつくった。さらに建材を確保するため森林まで購入した。
 外部の業者を排除するためである。しかも技術部は組合外の仕事まで受注するという勢いだった。
 ともかく一事が万事、この調子であった。戦時下という特殊な環境下にも関わらず、新社会建設に向かって突き進んでいたのである。(つづく)

image_print

こちらの記事もどうぞ