ホーム | コラム | 特別寄稿 | 特別寄稿=我が青春の思い出=サンパウロ市イピランガ区在住 小池 庸夫(つねお)=(上)

特別寄稿=我が青春の思い出=サンパウロ市イピランガ区在住 小池 庸夫(つねお)=(上)

一.自ら活動して他を動かしむるは水なり
二.常に己の進路を求めて止まざるは水なり
三.障害にあい激しくその勢力を百倍し得るは水なり
四.自ら潔うして他の汚れを洗い清濁併せ容るるは水なり
五.洋々として大洋を充たし発しては蒸気となり雲となり雨となり、雪と変じ霰(あられ)と化し凝(ぎょう)しては玲瓏(れいろう)たる鏡となりたえるも、其(その)性を失はざるは水なり

水の教訓    黒田如水


小池庸夫さん

 人の一生には数々の出会いがある。ふとした縁で出会ったにも関わらず、何時までも続く深い縁に結ばれる事もあれば、何年も付き合って来た仲であっても、ふとしたことから其のままになってしまう縁もある。
 我が人生に於いて特に印象深い青春時代の一時を綴って見ることにしよう。
 私が産まれたのは1939年、奇しくも大東亞戦争の勃発した年である。
 その頃父は東京農大を卒業後、私が産まれると同時に、一家は南朝鮮クンサンと言うところに土地を買い、日本人集団地に住んでいた。当時南朝鮮は日本の統治下にあり、父は獣医の資格取得、現地開発のもとに一家は安定した日々を過ごしていたのであった。
 所が1945年かって経験したことのない広島と長崎に投下された原子爆弾。そして遂に日本は敗戦国となる。外地に住んでいる全ての日本人は即刻帰国せよとの命令が下され、総ての財産を放棄して着のみ着のままの状態で…。
 余りにも急激な回りの変化に、日頃から体の弱かったっ母は耐えきれず、日本への引き上げ船に乗る寸前、収容所倉庫の中で遂に息を引き取る。その時、わたしはまだ6歳、姉8歳、兄12歳だった。
 3人の幼児を残し逝ってしまった母の想いは…。全財産を失ない、その上、妻をも亡くした父の想いは、いかほどであったであろうか…。
 日本に帰国間もなく父は二度目の妻を迎える。戦後に生きた我々の年代の者にとっては申す術もなく、ブラジルで過ごした者皆一様に苦難の道を歩む事になるのであった。
 その事、後程の機会にして先に述べた様に私の「遂に訪れなかった青春の一時」を記して見よう。

海外を志す

 中学を卒業する頃、心の奥にいつか機会あれば海外に行って見たいと言う夢が芽生えていたような気がする。
 進学を選ばず、木工職を身につけ、指物大工職人として働いていた。
 月給袋の中には1万円札一枚とちょっと。当時の大学卒業後の初任給が1万3800円という流行歌まで流行っていた時代の事。
 これではいくら定年まで働いても、結婚して我が家を持つのは夢のまた夢である。
 その頃、我が家では一家でブラジルへ移住の計画が成されていた。年頃の兄には現地で嫁さんも難しかろうと言うことから、結婚式迄して用意万端と言うことまで整えていたのであったが、何か手違いが生じ、ブラジル側で呼び寄せ困難との知らせから一家での移住を断念する。
 それならば、と言うところから、よし私一人行ってやろうではないかと言うことになり、広島県庁を通じ、単独移住の手続きを初めた。ブラジル側は同じ広島県出身の農家に呼び寄せてもらうことと相成る。

ブラジルへ

懐かしい神戸港出航の光景

 時は1959年11月28日、神戸出港、アフリカ丸、貨物船を兼ねた移民船。
 1万2千トン、500数十人の移民を載せて、横浜港をさいごに、アラスカの沖合を通過する頃に嵐にあい、50メートルを越す荒波を潜りながら突き進んで、ロサンゼルスを経て、パナマ運河を通過する。この頃になると、日本を出た時は真冬であったのが、赤道に近くなるに従って真夏の太陽が照りつけるようになっていた。
 中米沖合の島々を巡り、数々の夢と希望と不安を乗せて45日間の航海を無事終えて、サントス港に着岸したのは1960年1月18日。
 当時の移民制度としては、農業を目的とする者しか移民は受け入れられなかった。だが戦後移民の中には、私の様に全く農業経験の無いものも希望して来る事が出来た。
 その頃の日本は、まだまだ戦後の復興がままならない時代でもあった。
 お世話になることに決まっていた私の受け入れ先は、サンパウロから南に約230キロ、ラポーゾ・タバーレス街道を行った先、カッポン・ボニート市の山下徳丸氏の農場だった。家族はご夫妻に2人女の子10~8歳と男の子2人7~6歳。それに奥様の母 、北海道出来身のお婆ちゃんがいて7人家族。
 それと私がここに来る前、コチア青年が1人雇われていて鹿児島県出身だった。この青年のお陰で、全く農業経験のないわたしでも何とかなった。本当に助けになってくれた。
 彼は私が山下農場を去った後であるが、日本の親元から援助お受け独立、土地を買ってバタタ(じゃがいも)作りを始めた。だが銀行から土地を担保に融資を受け失敗する。
 ついには土地も機械も差し押さえられて、無一文となって夜逃げ同然の憂き目に合う。
 農業者にとってこの様に真面目に努力しても必ずうまく行くと言う確証はない恐ろしい所がある。
 さて働き始めた山下農場の主産物はバタタだ。新しい土地に植え付けるための土地作りからだ。一度に約10アルケールの土地の開墾から始める(1アルケール=2万4千平方米)。
 山あり谷あり大木ありだ。直径1mもあろう大木の根元を掘り起こし、根元を切っておき、枝にチェーンを引っ掛け、トラクターで引き倒し、枝を払って約3米の長さに。トランサドールといって、大きな鋸を2人で引っ張りあってひいた。
 まだ其の当時、引く機械などなかった。残っている木の根を全部掘り起こし、斬り倒した。雑木、枝等集め、山に火を付け燃やすのであるが、生木はなかなか燃えてくれない。拾い集めてはまた火をつける。大木の根元は転がせて 谷底に捨てる。
 土地作りから大変な作業である。星がで始める頃まで働き、朝まだ星が瞬いている頃に起き、そうして出来た土地を耕し、植え付け育てる。生産物を売ってお金になって帰ってくるまで、半年かかる。それも、多大な労力を費やし、尚かつ天候に恵まれ、良い値段がつけばお金になる、という話だ。
 実際のところ、過酷な労働の割に恵まれない仕事である。
 収穫時には、トラクターで掘り起こしたイモを拾い集めて天日で乾かし、土を払う。袋につめて1日に掘った約150袋をトラックに乗せて、その日のうちに家の倉庫に運ぶのであるが、家迄の約20キロの道程がある。
 時には雨にあうこともあり、帰り道は土道で坂が多い。時には溝にはまって動けなくなる。泥土にはまったタイアの下の土を削り取り、蟻塚(クッピン)を崩した土を敷き詰め、皆で荷台の後ろから押し上げる。
 スリップしてタイヤの泥がはねて、後ろで押す我らは泥まみれになって、溝のなかで幾たび鳴き崩れたことか。
 又あるときは、山焼きで燃え残った生木や、木の根を拾い集めては、山にして火をつける。何度も何度も繰り返し きれいに燃え尽くす迄。
 真夏の太陽が照りつける中で疲れはて、家に帰って鏡に写っている炭と埃で真っ黒になった顔。その姿を見て、もしもこの姿を母が見たなら、    きっとブラジルへなどよこさなかったであろうと思った。
 そう、情けなく思うこともあった。そうしたある日のこと、ついにその日が来た。その日パトロン(農場主)は私達を畑に送りつけ、町に買い物に出掛け居なかった。そんなときは、私とコチア青年とで、カマラーダ(農業労働者)連中に指示を与える事になっていた。
 その日、昼食も終えて、さて仕事にとり掛かろうかと    木影で休んでいるカマラーダに声をかけた。
 「バーモス・コメサー(さて始めよう)」と呼びかけるが、なかなか始めようとしない。日頃から農業経験の無い青二才の私の命令等、聴く耳を持たない荒くれ男のカマラーダ連中。ついに私も声を荒げて「バーモ・コメサー、バーモ、バーモ」と大声で怒鳴る。すっと若僧の一人が    凄い剣幕で、私に向かって鍬を振り上げ襲いかかって来た。
 ここは一応、日本男児。ここで引き下がるわけには行かない。剣道の構えで応戦。相手はこれはかなわないとみて、私に鍬を投げつけて逃げた。
 その場でことを納めて置けば良かったのだけれど、この時とばかりにあとを追って行ってしまった。そのうち相手が転んだので、鍬を反対側にして2度3度どやしつけた。
 そうこうしてると、いつの間にか近付いていた他のカマラーダの一人が、私の後ろから私の襟首を引っ掛け引っ張って居る者があった。
 一歩間違えば、私に一撃頭を遣られて居たら今頃どうなっていたことやら。コチア青年が駆けつけて来てくれ、その場はどうにか収まった。けれど、後で考えるとゾッとする思いだ。
 その晩、パトロンに呼びつけられ、どの様に話を付けたのか、若僧の怪我もたいした様子でもなくすんだようだが、お前が仕事を大事に思う事は分かるが、喧嘩してまでやってはいけない。争いを起こしてまで、お前がいくら頑張っても2~3人分の仕事はやれてもこれから先、どれだけ多くの人を使いこなせるかによってお前の裁量、才覚と言うものが決まる。
 これから先独立して何かを 始めることがあれば、必ずそういったこと頭においておけ、と言われた。確かに先々でこの言葉はどれだけ我が人生で役にたった事か…。
 馴れない仕事の上、そうしたトラブルを起こし、どうしても好きになれない。体格や そうした重労働に耐えられるほどの体力も備わってはいない。心身共に疲れはて、パトロンに一週間の有給休暇を申し出る。日本から来てまだ1年と8カ月経ったころだった。

移民船「アフリカ丸」の前で記念写真

 ブラジルに来てまだサンパウロを知らない頃だ。休みをもらったその朝、皆が畑に出掛けていった後、ゆっくり朝のカフェーをしながら、会話のなかでのパトロンの奥様の言葉、「貴方はこれからサンパウロに行かれたなら、マルセネイロ(指物大工)の職の事も考えてみては」が心に残った。
 それは、私達にすれば「家族同然の貴方がここから去って行くと言うことは、とても寂しく、そうしてほしくはない。しかし貴方の将来の事を思えば、折角あなたの身につけいるマルセネイロの職人として働いたほうが、このまま農業を続けるよりも良いのでは。見ていて可愛そうで、仕方がない」と言われたように感じた。まるで実の母親が息子を送り出すように。
 実のところ、今までこのような重労働にも耐えてこられたのは、一重に子供達も兄妹 弟のように馴れ親んで接しててくれたおかげだ。泥んこになって夜遅くなって帰ってきたとき、あの頃まだ電気もない、井戸もない、谷川の水を運んで毎日薪でお風呂を沸かし、パトロンより先に「お風呂に入って」といたわって下さった。
 すべて子供達、奥様の思いやりの心があっての事。その方面を調べて見てはどうかと言われて、その時、我が胸の もやもやしていたものが吹っ切れた。

サンパウロへ

 当時、田舎からサンパウロと言えば、まず目指すところはリベルダーデのシネマ館、シネニテロイがあるガルボン・ブエノ街だった。
 近くでペンソン(宿屋)を探し、一週間の宿泊をきめる。そしてまず日系の新聞を買い、指物大工の職探しだ。求人広告が直ぐに見つかった。
 場所はピニェイロスからフランシスコ・モラト街道をさかのぼったところ、カシンギ区だ。その地区で最も大きい会社ローパス・レジェンシア (Roupas Regencia)、男性服専門の洋服を縫う会社だった。その工場内の木工職人を求人していたのだった。まだまだブラジル語の儘ならない身振り手振りでの会話。テストとして図面を渡された。
 それには小さな机の図面があり、この図面通りのものを ここにある材料機械道具を使って一週間以内に作って見よと言うことだった。
 私には簡単な事だった。とはいっても早々に面食らった事は、ブラジルの鋸鉋は皆日本とは逆。押して切る事だった。
 だが、3日で仕上げた。早速合格となり、最初の給料は月18コントスと決まった。当時の最低賃金は4コントスくらいの時だ。いきなり18コントと言われて、天にものぼる気分であった事は言うまでもない。
 さてそこに勤めるとなると近くに住む場所を探さねばならない。
 一週間の休暇をもらってはいるが、物見遊山をしている場合ではない。カシンギを歩き回って、日系人を見付けては「この辺りにペンソンはないか」と探し求めるが、そんな所はない。だが近くに日語学校があり、橋詰さんといって、田舎から出てきた子供達を預かっている所が有ることを聞く。
 昼下がり、さっそくお願いに行ってみる。あいにく主人の男先生は留守で、奥様から「主人の帰るまで部屋で待つ様に」と言う。だが、2、3時間待てど、なかなか帰ってこられない。遂に夜になってしまい、「別の部屋で休んでいなさい。明日ゆっくり話せば良いから」と言うことになり、裏の部屋でやすませて 貰うこととなった。
 寝付かれず、うとうとしていたところ、夜中に主人が帰ってきた様子で、話し声がする。「…なに新来青年!! そんな訳のわからない人間を、家で預かる訳には行かない。直ぐに叩き起こして帰らせろ」と言う声。
 何とか奥様がなだめ、そんな悪い人では無さそうだから ということで、さて夜が明けるのを見定め、橋詰氏に面会した。
 当時のカシンギ区にあった只一つの日語学校だから、知る人ならよくご存じであろう。其の界隈では有名なガンコ親父、男先生だったと聞く。よくもまあ、あの難しい親父さんを説き伏せったものだと後々語り草にもなった。
 人は皆、何事にも誠心誠意を尽くせば、必ず伝わるものだと言うことを知る。と言うことは、当時新来青年と言えばリベルダーデ界隈に於いては、百姓が嫌で田舎から出てきた職にあぶれた新来青年が多く、二世グループとよく喧嘩ばかりしていた評判の悪い時代だった。(続く)

image_print