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中島宏著『クリスト・レイ』第122話

 ただ、話すのがポルトガル語に変わったからといって、雰囲気が自由になるということではなかった。アヤのように、日本人であること自体が警戒の目で見られるという状況になりつつある今、以前のように、どこでもいつでも、簡単に会えるということは出来なくなった。無論、外国人に対する外出禁止令というほどの厳しい規制は、この時点ではまだなかったが、それでも日本人たちは何となく自粛するという感じで、外出することを徐々に控えるようになっていた。
 マルコスもその辺りを考慮して、アヤと会う機会を減らし、外でのデートを避けてできるだけ彼の家か、アヤの家で話すことにした。彼女の叔父やその一家はよく理解していて、マルコスをまるで親戚の者のように受け入れてくれていたから、何も問題はなかったが、事情がよく分かっていない人々の中には、アヤに、マルコスと会うのはいずれ危険なことになるからやめたほうがいいと忠告する者もいた。
 世の中がそのように、外国人にとって居心地の悪いものになりつつあった。
 そんな環境に感化されたように、あの二人の間の恋愛感情に繋がる問題は、取りあえずはそのままにして置こうということになった。アヤの方からそういう申し出があり、今のところはごく親しい友だちという形のままの方がいいという判断から、マルコスもそれを了承した。
 本来なら、このような感情的な部分のことは簡単に割り切って考えられるものではないが、こういう状況下ではお互いにそれを認め合うしか方法はないようであった。無論、双方ともに心の中はすっきりしないが、この際は、とにかく忍耐を強いられる時であり、それを受け入れなければならない時でもあった。

「外国人に対して、かなり規制が厳しくなって来たけど、アヤはこれからのことについて、不安を感じたことはないの?このままでいくと、外国人が自由に生きていけなくなるとか、この国での将来があまり期待できないとか、そういったことに考えがいくということはないのかな」
「それはないわね。だって、いくら外国人だからといって、それだけの理由で、この国に移民して来た人たちを差別したり、その行動を規制するなどということはあり得ないでしょう。そこまでやるとすれば、ブラジルの政府も考えが狭いということになるわね。だって、今この国を成り立たせているのは、元はといえば移民の人たちでしょう。つまり、外国から来た人たちによって、ブラジルの発展が支えられてきたのだから、それを今になって否定しようとするのは間違っていると私は思うわ。
 もっとも、私だって立派な外国人だから、あまり大きな声で批判はできないのでしょうけど。今、流行のナショナリズムということも、心情的には分からないこともないけど、でも、それをあまり強調しすぎるとかえってそれによる弊害がでてくるのじゃないかしら」
「弊害というと、つまりこの国にとってはプラスにならないということかな。ナショナリズムは、国民の気持ちを一緒にまとめて国を統一していくという点では、効果がありそうにも思うけどね」
「そうね、そういう点では効果があると思う。しかしね、マルコス、一方で世界からの移民の流れを止めてしまうのも、ちょっと問題があるのじゃないかしら。
 だってマルコス、考えてもみなさいよ。こんな、限界がどこにあるのかも分からないような巨大なブラジルの国では、まだまだ人が必要でしょう。これからの何十年、あるいは百年先のことを考えたら、少々の人間を世界中から受け入れたって知れたものでしょう。そういう意味でいえば、この国はまだ多くの外国人が必要なのです。

 

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