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中島宏著『クリスト・レイ』第140話

 隠れキリシタンの話は、両親からも、それから村の人たちからも、いろいろ聞かされていたから、それなりの知識もあったし、その歴史もある程度は知っていたけど、日本でのキリスト教の実態は実は何も知らなかったわけね。そこで初めて、私たちの持つ宗教は、日本では特殊なものなのだということが分かったわ。
キリスト教とはいわず、耶蘇教と呼ばれていたことも、その頃知ったの。耶蘇、ヤソという言葉は、もともとラテン語のイエスから来たものらしいんだけど、中国を通じてその呼び名が日本に伝わったとき、日本語読みとしてそれが定着したようね。
 だからね、私たちは、耶蘇教の隠れキリシタンということになるわけね。まあ、呼び名のことはどうでもいいけど、とにかくこのときから、私たちの宗教は特殊な存在であることを否応なく知らされることになったわ。別に、それによって大きな衝撃を受けたというほどのことはなかったけど、でも、それまでは当たり前の宗教だと思っていたものが、そうではなかったということに気が付いたときは、ちょっと不安定な気分になったことはおぼえているわね。
 それから、私は今村教会に通って、宣教師の話を熱心に聞いたり、村の長老たちの話を聞いたりして、私なりにキリスト教や隠れキリシタンのことを勉強したの。もちろん、それだけでは十分でなかったけど、後になって大きな町の図書館に行ったりして勉強を続けたわ。宗教のことをそんなに勉強して何になるんだという意見もあったけど、私にとってそれは、自分の存在をきちんと証明できるような、そういう重要なことでもあったわけね。教会の仕事をするために勉強するということとは、ちょっと次元の違うものだったの。それはあくまで、私自身のための目的だった。
 マルコスも言ってたけど、私が案外、日本でのキリスト教の歴史に詳しいのは、そのときに勉強した結果なのね。で、それで何か得るところがあったかと聞かれれば、それは間違いなく得るものが大きかったといえるけど、でも同時に、いろんな疑問が出てきたことも事実で、そこから私はかえって迷いが生じていったことにもなったわ。
 隠れキリシタンの存在の意味は一体、何なのか。なぜ、こういう思想が、何百年の時空を越えて生き続けて来たのか。それを支えて来た人々の心情はどのようなものだったのか。
 そんなふうに考えていくと、ますます出口が見えなくなって行く感じで、これはとても私の手には負えないと真剣に思ったわ。
 隠れキリシタンという流れの中に生まれて、その中で何の疑問もなく育って来た私にとって、むしろ、そのままを単純に信じれば、それが一番簡単だし、ある意味では幸せな生き方だったかもしれないけど、幸か不幸か、私はそこのところを自分で突き破ってしまったのね。
 破ったのはいいけど、そこから先のことは見えてこないし、かといって、一旦破れてしまったものを縫い繕うという術も知らないから、そこから不安定な道にさ迷い出た感じになっていったわ。私にとって、そこから本当に苦しい時期に入っていったの。
 それは、そういう宗教的な悩みの他に、私にとっては、私の人生が一変するほどの大事件が、それを前後するようにして起きたからなのだけど、そのとき私が受けたのはまさに大きな衝撃だったわ。まあ、厳密にいえばそれは、そのときに起きた事件ということではなくて、そのずっと以前からあったことなんだけど、私がそれを知ることによって、私にとっての大事件というようなことになってしまったわけね。

 

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