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セラードの日系人=ふるさと巡り、中部高原へ(2)=パラカツ、地盤築く=入植後26年 最盛期の半数60家族

4月11日(金)

 ブラジリア訪問の翌朝、一行は次の目的地、ミナス州パラカツ市へ向かった。ブラジリアから約二百三十キロ。途中で休憩のため、クリスタリーナに立ち寄る。その名の通りかつては水晶の採掘で栄えた町だ。
 バスが停まると、そこには十数人の宝石売り。首飾りや指輪、原石を手に商売を始める。ふるさと巡りの一行も値段の交渉に余念がない。出発が近づくと値段はさらに下がっていった。
 パラカツは金の町。かつてこの町では、多くの黒人奴隷が金鉱の採掘に従事していた。現在の人口は七万五千人。町の中心には一七五〇年に建てられたマトリージャ・サン・アントニオ教会が当時のままの姿をとどめる。
 金の採掘はいまも続く。十五年前からイギリス資本の「リオ・パラカツ採掘会社(RPM)」が機械による採掘を始めた。現在年間七トンの金と二トンの銀を産出しているという。
 教会を訪れた後、ふるさと巡りの一行は同社の採掘現場を見学。その後、市内にあるパラカツ日本人会で開かれた歓迎昼食会に出席した。
 〝閉ざされた〟の意味を持つセラード地帯。ブラジル国土の二二%を占めるこの地域は、低い潅木と草原からなる酸性土壌の痩せ地で、長い間不毛の地とされてきた。このブラジル内陸部の開発事業は、軍政時代の国家統合計画の一環として七〇年代に始まり、日本との共同事業として約二十年にわたって実施された。
 パラカツへの日本人入植は一九七七年に始まる。当時のコチア青年グループを中心に三十二の日系家族が入植。八〇年代にかけて、南伯農協、地元のエントレ・リベイロス組合などのプロジェクトを通じ百十家族が入植した。一ロッテの平均は約三百ヘクタール。現在は約五十家族が大豆やトウモロコシ、コーヒー、野菜や果物を栽培する。
 パラカツ日本人会(嶋田勝男会長)は八二年に設立。事業団の援助等により、その四年後に現在の会館が完成した。敷地内の日本語学校では約四十人の子供が学ぶ。
 入植から二十数年。すべての入植者がうまくいったわけではない。潅漑設備の整備の遅れや異常気象などで休耕に追い込まれた農業者もいる。「いま残っている家族はみな、水と電気があるところです」と、日本人会の役員は語る。同会の会員は最盛期の百二十家族から六十家族まで減少した。その一方、市の商業協会会長を日系人が務めるなど、パラカツの日系人は地域にその地盤を築きつつある。
 同地に住む前田康子さん(七四)は「当時はなにもなくてね。畑まで三日かかったものです。私も働きましたよ」と、入植当時を振り返る。前田さんは一歳の時に渡伯してアリアンサに入植、ノロエステ、パラナを経て、二十年前に一家でパラカツに入植した。
 前田さんは北海道出身。昼食会の席で、同郷出身者との交流を呼びかけた。そこで、ふるさと巡り参加者の中村テルさんは、前田さんと三十数年振りの再会を果たす。前田さんは中村さんがサンパウロ州ミランドポリスに住んでいた当時の知り合いだった。「あの頃はどっちも若くて、子育てで忙しかった」と語る中村さん。「こんなこともあるんですね」と思いがけない再会を喜んでいた。
 最後に一同で唱歌「ふるさと」を合唱。昼食会は終わり、一行はパラカツを後にした。
 強い日差しが照りつける。先月までの雨季は終わり、これから十月まで、ほとんど雨の降らない乾季が続くという。バスを見送る婦人部の女性は、「これから真っ黒に焼けるわよ」と、明るい笑顔を見せた。
(つづく・松田正生記者)

■セラードの日系人=ふるさと巡り、中部高原へ(1)=美質を次世代に残したい=首都の長老の願い

■セラードの日系人=ふるさと巡り、中部高原へ(2)=パラカツ、地盤築く=入植後26年 最盛期の半数60家族

■セラードの日系人=ふるさと巡り、中部高原へ(3)=ぶどうから新しい果樹へ=ピラポーラ 大河利用の農業

■セラードの日系人=ふるさと巡り、中部高原へ(4)=日本人が築いたコーヒー地帯=C・ド・パラナイーバ 霜害避け未知の地へ

■セラードの日系人=ふるさと巡り、中部高原へ(5)=コチア参産組入植呼びかけ=サンゴタルド モデルケースに

■セラードの日系人=ふるさと巡り、中部高原へ(終)=尽きぬこの旅の魅力=不毛の大地の変化、世代交代

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